アマチュア無線家のリスナーより受信報告や演奏曲のリクエストが続々と届くようになると、実験局8XKで放送する自前のレコードが足りなくなり、コンラッドは地元のハミルトン音楽店にレコードの貸し出しを交渉してみた。そして『いま掛けたレコードはハミルトン音楽店で販売しています』とアナウンスすることを条件に無償提供を受けることに成功した。コンラッドがアナウンスしたレコードと、そうでないものではレコード店の販売枚数に差がついたという[14]。 デイビス副社長(Harry P. Davis)は1891年に入社したウェスティングハウス電気製造会社の技術者で、1911年に技術担当副社長に抜擢された[注釈 7]。1920年9月29日、ピッツバーグの新聞The Pittsburgh Press
デイビス副社長のひらめき
売出し中の受信機はウェスティングハウス電気製造会社の製品ではなかった。デイビス副社長はコンラッドが自宅から無線電話の定期放送をしていることは知っていたが、それが受信機の販売ビジネスにつながるとは考えてなかったため、この広告を見て驚いた。デイビス副社長はさっそくコンラッドら元無線機チームを召集して、良い音楽レコードを提供すれば蓄音機が売れるように、我々が良い番組を提供すれば受信機が売れるはずだと皆に説いた。これはコマーシャルによる広告放送モデルではなく、受信機を販売するためのソフトウェア(番組コンテンツ)の提供だった。
そしてデイビス副社長はコンラッドをはじめとする集められた一同に、11月2日に行われる合衆国大統領選挙において、ハーディング候補対コックス候補の開票速報が放送可能かを問うと、皆はできると断言した[16]。こうして放送用100W送信機の設計・製作に着手し、あわせて東ピッツバーグ工場の屋上に掘立て小屋のスタジオと送信アンテナの建設がはじまった。 1920年11月2日の20時、世界初の商業ラジオ放送局といわれるKDKAが放送を開始した。ピッツバーグ・ポスト社から入ってくる開票数字を広報部のローゼンバーグが読み上げ、速報と速報の間はレコード音楽でつなぎながら、真夜中過ぎまで続いた。当日の技術面はドナルド・G・リトルが仕切り、コンラッドは緊急事態に備え自宅の予備機(8XK送信機)の前で待機していた。受信機が設置された教会や会社幹部宅に大勢の人が集まりこれを聴いた。放送は大成功だった[17][18]。 KDKAは一般リスナーを増やすために、講演中継[注釈 8]、劇場中継[注釈 9]、スポーツ中継[注釈 10]など様々な番組開発を行った。また21:30の放送終了後、KDKAリスナーが時計の時刻を合わせられるように21:55-22:00の5分間、NAAのタイムシグナルを放送した。ある意味これが長波から中波への中継放送といえるかもしれない。またレコード演奏の放送ばかりだと、その音質は蓄音機で直接聴く方が良いため、ウェスティングハウス社従業員クラブの吹奏楽団による生演奏を織り交ぜることにした。さらに1921年12月から週刊番組ガイド誌の元祖である『Radio Broadcasting News 』を出版し、向こう1週間の放送予定番組とその聴きどころなどを紹介し、リスナーの拡大に努めた。 中でも大勢の人々の関心を集めた番組は、1921年1月2日の朝から始まった日曜礼拝中継で、この番組は「Church Services(礼拝)」と呼ばれた。ピッツバーグ市内の教会とKDKAのスタジオ間に敷設した専用線を経由して日曜礼拝を生中継したのである。その結果、礼拝に行きたくても体が不自由だったり、何かの都合で家を空けられない人などから、このサービスを絶賛する礼状が毎日束になってKDKAに届いたという[19]。この「Church Services」がウェスティングハウス電気製造会社のラジオ受信機の売れ行きにはずみを付けた。 そしてまたウェスティングハウス電気製造会社はラジオ受信機の販売台数を伸ばすために放送エリアの拡大にも努めている。1921年9月19日にマサチューセッツ州スプリングフィールドでWBZ、同年10月1日にニュージャージー州ニューアークでWJZ、同年11月11日にイリノイ州シカゴでKYWが本放送を始めた。コンラッドはこれら系列局の建設中の頃から、番組を配信する時に発生する有線通信会社AT&Tの電話回線料金が高く、これを無線中継で回避することを考えていた。 ウェスティングハウス電気製造会社の系列ラジオ局開局所在地(州)コールサイン周波数 しかし当時の商務省の方針により、商務省はすべての商業ラジオ局に同じ波長360m(833kHz)を割り当てていた[注釈 11]ため無線中継は不可能だった。親局の833kHzを受けて、それを833kHzで再送信することはできないからだ[注釈 12]。 コンラッドは長波や中波の無線局の高調波成分を短波で受けてみると、空電妨害が少ない分、良好に受信できるケースがあることに気付いていた[20]。 1921年春、中波360m(周波数833kHz)のKDKAの番組音声を、実験局8XKの短波100m(周波数3MHz)でサイマル送信し、各地で受信状況を調査した。するとボストンなどいくつかの地区では短波の方が強く受かったのである[21]。 そこで波長と電界強度の関係を明らかにするために、マサチューセッツ工科大学の実験局1XMと、J. R. Decker氏 のアマチュア局1RD[注釈 13]および少し遅れてJames C. Ramsey氏の実験局1XAの3局に協力を要請した。いずれもボストンの無線局である。そしてコンラッドがピッツバーグで待機し、3局には1MHzから3MHz付近まで送信周波数を少しずつ上げながら発射してもらったところ、1RDと1XAの電波は波長が短いほど強く受かるという結果を得た。コンラッドは後年、この短波伝搬実験を無線技術者学会IREで発表している[22]。 1922年2月27日から3月2日、フーバー商務長官の呼び掛けで、全米の電波利害関係組織が召集されて第一回国内無線会議が開かれた。当初より権益の主張合戦となっていたが、3MHzまでの「業務別周波数分配案」の合意になんとか漕ぎ着けた。そこより放送サービスを抜粋したものが下表である。 米国では1920年1月17日よりワシントンD.C.アナスコティア さて民間企業の商業放送には中波618-1,052kHzと短波[注釈 14]2.0-3.0MHzの2つのバンドが勧告された[注釈 15]。 1922年 第一回国内無線会議の放送バンドプラン[25]周波数帯局種
ラジオKDKAの開局と番組開発
短波の開拓
系列局への配信経費問題
1920年11月2日ピッツバーグ(ペンシルバニア州) 親局KDKA833kHz
1921年9月19日スプリングフィールド(マサチューセッツ州)WBZ833kHz
1921年10月1日ニューアーク(ニュージャージー州)WJZ833kHz
1921年11月11日シカゴ(イリノイ州)KYW833kHz
短波伝搬実験(1921年春)
短波放送バンド
146-162kHzGovernment broadcasting (海軍慰安放送や連邦政府放送)
200-285.7kHzGovernment & Public broadcasting
(海軍慰安放送、連邦政府放送。および州政府、大学等による公共放送)
400-462kHzGovernment & Public broadcasting
(海軍慰安放送、連邦政府放送。および州政府、大学等による公共放送)
606-618kHzGovernment & Public broadcasting
(海軍慰安放送、連邦政府放送。および州政府、大学等による公共放送)