1935年から4年間にわたりアカデミー会長を務め、1936年にアカデミー協会との対立が原因となった俳優や監督の組合が起こした授賞式ボイコット運動に抗して第8回アカデミー賞を開催させるなど、映画以外での手腕も周りから高く評価される。
1930年代はまだ大恐慌の傷跡が大きく、暗い世相の最中、楽天主義、アメリカン・ドリーム、ユーモア、ヒューマニズムをふんだんに取り入れたキャプラの作品はキャプラスク(Capraesque)と呼ばれ、名実ともにフランク・キャプラは1930年代のアメリカ映画を代表する映画監督となった。1939年、『我が家の楽園』で名コンビを発揮したジェームズ・スチュワートとジーン・アーサーが再び共演した政治批判も折り込んだ『スミス都へ行く』を発表、またもや批評面でも興行面でも大成功する。
その後、ワーナー・ブラザースに移籍、1941年のゲイリー・クーパー主演の『群衆』ではいつものヒューマニズムあふれる内容だけではなく、扇動されやすい大衆の恐ろしさも同時に描いた。1941年にはそれまでとは打って変わったブラック・コメディ、「毒薬と老嬢」を撮影(公開は1944年)。 第二次世界大戦中は軍隊に志願し、アメリカ陸軍の映画班に所属したキャプラは、ワシントンD.C.に駐在し、日中戦争を描いた『ザ・バトル・オブ・チャイナ』を含む「われらは何故戦うのか」シリーズ (1942?45) といった戦意高揚のプロパガンダ映画を新兵教育のために製作、また兵士の日常を描くギャグアニメーションのシリーズ「Private Snafu 戦後、戦時中に陸軍の映画班に所属していたジョージ・スティーブンス、ウィリアム・ワイラーらと共に製作会社リバティ・ピクチャーズを1945年に創設、自らも再び映画製作を再開して、1946年にこれまでのキャプラ映画の集大成として『素晴らしき哉、人生!』を発表するも、興行的に惨敗。1948年、リバティ・ピクチャーズはパラマウント映画に吸収され、自分が満を持して発表した『素晴らしき哉、人生!』の失敗で自信を消失して、その作品数は激減する。 1964年の短編映画『Rendezvous in Space』を最後に映画界から引退、1971年には自伝を発表する。しかし、この頃からテレビでクリスマスの時期になるとパブリック・ドメインとなった『素晴らしき哉、人生!』が頻繁に放映され始め、それまでキャプラを知らなかった若い世代から再評価され、今ではクリスマスにこの映画が流れるのは定番となっている。 1991年9月3日、老衰のため死去。94歳没。
第二次世界大戦
『素晴らしき哉、人生!』
晩年
監督作品『或る夜の出来事』(1934年)『素晴らしき哉、人生!』(1946年)
Fultah Fisher's Boarding House
当りっ子ハリー The Strong Man (1926)
初恋ハリイ Long Pants
力漕一挺身 For the Love of Mike (1927)
呑気な商売 That Certain Thing
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サイレント・コメディ全史(新野敏也著、1992年、 喜劇映画研究会 ISBN 978-4906409013)
喜劇映画〉を発明した男 帝王マック・セネット、自らを語る(マック・セネット著、石野たき子訳/新野敏也監訳、2014年、作品社 ISBN 4861824729)
脚注[脚注の使い方]^ Frank Capra, The Name Above The Title - An Autobiography, 1972. ISBN 978-0306807718 (Paperback 1997)
外部リンク
フランク・キャプラ - allcinema
⇒フランク・キャプラ - KINENOTE
Frank Capra
表
話
編
歴
フランク・キャプラ監督作品
1920年代
当りっ子ハリー (1926)
力漕一挺身 (1927)