フランクリン・ルーズベルト
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1920年7月、ニューポート・セックススキャンダル(en)に関連した報道で海軍次官を辞職し[注釈 11]、副大統領候補として大統領選に出馬した。

1920年民主党全国大会でルーズベルトは副大統領候補に選出され、大統領候補、オハイオ州知事ジェームズ・コックスと共に選挙戦に突入した。しかし両候補は共和党ウォレン・ハーディングに大敗。ルーズベルトは政界から引退しニューヨークで弁護士業を始め、新たに結成されたニューヨーク・シビタンクラブに加わった[10]
ニューヨーク州知事から大統領選まで

1920年代、ニューヨークで態勢を立て直し、ニューヨーク市のタマニー派の対抗馬としてその名を馳せたものの、1922年のニューヨーク州知事選ではアルフレッド・E・スミスを支援し、自らのいとこである共和党候補のセオドア・ルーズベルト・ジュニアと対抗した[11][注釈 12]。そのスミスは1928年大統領選で大統領候補に指名されると、ルーズベルトに自分に代わって州知事選挙に出馬するよう依頼した。一方のスミスは自らの地元でも共和党のハーバート・フーヴァーに敗れ、大統領選で大敗したが、他方のルーズベルトは知事に当選、改革派知事として多くの新しい社会計画を行った[注釈 13]。1930年の再選の選挙運動では、ルーズベルトはニューヨーク市のタマニー協会の協力を必要とした。しかしながら、共和党の対抗馬チャールズ・H・タトルは選挙の争点としてタマニー協会の不正を取り上げるが、ルーズベルトは70万票以上の差をつけてタトルに勝利、知事2期目を務めることとなった[13]

こうしてルーズベルトは民主党の主要候補となり、1932年の大統領選に出馬する。現職のフーヴァーの劣勢が明らかだったため、指名戦は激しい争いとなった。アル・スミス(ニューヨーク州)は1928年の立候補に続き何名かの有力者の支持を取り付けるが、ニューヨーク民主党はルーズベルトが支配した。ルーズベルトは個人的なつきあいのある新聞王ウィリアム・ランドルフ・ハーストアイルランド系アメリカ人コミュニティの指導者ジョセフ・P・ケネディ、カリフォルニアの有力者ウィリアム・マカドゥーらの人脈を、自らの全国的な支援運動に組み込んだ。テキサスの指導者、ジョン・N・ガーナーがルーズベルト支持を表明し、ルーズベルトから副大統領候補に指名された。選挙戦は「三つのR - 救済、回復および改革」[注釈 14]の綱領で世界恐慌と戦うとして行われ、そのスピーチの中でニューディール(新規まき直しの意味)という用語を使用[注釈 15]。選挙戦では、現職大統領フーヴァーの財政政策を無駄使いの権化(ごんげ)と徹底的に批判し、連邦政府の運営コスト削減の仕事を自分に任せてほしいと、緊縮財政を主張して政権を奪取した[14]。1932年の選挙に勝った翌1933年2月15日、フロリダ州マイアミでルーズベルトは暗殺の難を逃れ[15]、暗殺者はシカゴ市長アントン・J・サーマクを殺害した。.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

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大統領
ニューディール政策
米国の実質GDP(1910-1960年)、赤色強調は大恐慌時代 (1929?1939年)。ルーズベルトの大統領就任は1933年。米国の失業率(1910-1960年)、赤色強調は大恐慌時代 (1929?1939年)。1939年以前は推定値、ルーズベルトの大統領就任は1933年。

世界恐慌に対しては有効的な対策を取れないまま大統領職を退いた前任のハーバート・フーヴァーに対し、ルーズベルトは1933年4月から「ニューディール政策」と呼ばれる、政府による経済への介入(積極的な経済政策)を実施した[16]テネシー渓谷開発公社、民間植林治水隊(Civilian Conservation Corps, CCC)、公共工事局 (Public Works Administration, PWA)、公共事業促進局社会保障局、連邦住宅局 (Federal Housing Administration, FHA)などを設立し大規模公共事業による失業者対策を行うなど、ケインジアン的な政策であった。ほか団体交渉権保障などによる労働者の地位向上・社会保障の充実などの政策を行った。ルーズベルトが就任した1933年以降、景気は回復過程に入り、実質GDPが1929年を上回った1936年[17]大統領選挙では当時の一般投票歴代最多得票率(60.80%)で再選。両院議員選挙も民主党が制し政権を盤石なものとした[18]。しかし、1937年の金融・財政の引き締めによる景気後退[19]もあり、結局任期の1期目と2期目である1933年から1940年の期間には名目GDP[20]や失業率[21][22]は1929年の水準までは回復しなかった。

その後1941年12月の第二次世界大戦への参戦による史上最大の軍拡、軍需経済、戦時経済の著しい増大[23]によってアメリカ経済は完全に回復し、失業者も激減した。近年では第二次世界大戦が無くても成功したのではないかという意見と、最初から大戦の開戦が無ければ成功しえない政策であったという意見(ミルトン・フリードマンら)がある。アメリカ合衆国連邦政府が公開している経済統計によると、アメリカ合衆国の実質GDPが1929年を上回った年度は1936年[17]、名目GDPが1929年を上回った年度は1941年[20]、失業率が1929年を下回った年度は1943年である[21][22]


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