フランクリン・ルーズベルト
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サラはフランクリンの幼少時のみならず、生涯、支配的な影響を与えた[注釈 6][要出典]。愛犬ファラとともに

この時代の富豪の子弟の例に漏れず、フランクリンは家庭教師の手によって教育を施された。同世代の子供と交流する機会はほとんどなかった。14歳の時、名門グロトン校に入学を果たしたものの、寄宿舎生活にはなじめなかった。1904年ハーバード大学1908年にはコロンビア大学ロースクールを卒業。大学時代のフランクリンは学内紙の編集長を務める活躍ぶりを見せる一方で、セオドアも会員名簿に名を連ねていた名門クラブ『ポーセリアン』への入会に失敗している。

1908年にウォール・ストリート法律事務所での仕事を引き受ける前、1905年聖パトリックの祝日にセオドア・ルーズベルトの姪(弟の子)であるアナ・エレノア・ルーズベルトと結婚した。この結婚式で、すでに亡くなっていた実父に代わり花嫁エレノアの腕を取ったのは大統領セオドア・ルーズベルトである。6人の子供(5男1女)[注釈 7]をもうけ、4番目に生まれた息子エリオットはのちに作家となった。

1911年10月11日、フリーメイソンに加入した[6][7]
初期の政治経歴と海軍との関係

1910年の州議会議員選挙でダッチェス郡から州上院に出馬。同郡では1884年以来民主党からの議員を選出していなかった。選挙では地滑り的勝利で当選する。1911年1月1日に議員に就任し、民主党を支配していた「タマニー・マシーン」に対する「反対分子」グループのリーダーとなった。連邦上院議員選挙が1911年1月16日、民主党幹部会議と共に始まり、二つの派閥の争いのため74日間行き詰まることとなる。3月31日にジェームズ・A・オゴーマンが選出され、タマニー派の候補ウィリアム・F・シーハンを打ち破ることでルーズベルトは目的を達成し、ニューヨークの民主党においても名声が高まった[注釈 8]

1913年、当時の大統領ウッドロウ・ウィルソンによって海軍次官に任命された。海軍長官ジョセファス・ダニエルズの下で同職を務め[注釈 9]、海軍の拡張に尽力し、海軍予備役部隊を設立した。中米およびカリブ海諸国への干渉のために海軍と海兵隊を派遣した。1920年の大統領選挙において、副大統領候補のルーズベルトは海軍次官として1915年にハイチに課した憲法を起草したと主張した[注釈 10]

ルーズベルトは生涯を通じて海軍への愛情を育んだ。彼は海軍予算を承認させるため議会のリーダーとその他の政府の各省と交渉した。潜水艦の導入と、ドイツ潜水艦による連合国船団への脅威に対抗する戦力導入の熱心な支持者であった。そして、ノルウェーからスコットランドまでの北海に機雷を敷設し、機雷原を作り上げるよう提案した。1918年にはイギリスフランスを訪問し、アメリカ海軍の施設を視察した。この訪問で彼は初めてウィンストン・チャーチルと面会した。1918年11月に第一次世界大戦が終了すると、ルーズベルトは復員業務を担当し、一方海軍の完全解体計画に反対した。1920年7月、ニューポート・セックススキャンダル(en)に関連した報道で海軍次官を辞職し[注釈 11]、副大統領候補として大統領選に出馬した。

1920年民主党全国大会でルーズベルトは副大統領候補に選出され、大統領候補、オハイオ州知事ジェームズ・コックスと共に選挙戦に突入した。しかし両候補は共和党ウォレン・ハーディングに大敗。ルーズベルトは政界から引退しニューヨークで弁護士業を始め、新たに結成されたニューヨーク・シビタンクラブに加わった[10]
ニューヨーク州知事から大統領選まで

1920年代、ニューヨークで態勢を立て直し、ニューヨーク市のタマニー派の対抗馬としてその名を馳せたものの、1922年のニューヨーク州知事選ではアルフレッド・E・スミスを支援し、自らのいとこである共和党候補のセオドア・ルーズベルト・ジュニアと対抗した[11][注釈 12]。そのスミスは1928年大統領選で大統領候補に指名されると、ルーズベルトに自分に代わって州知事選挙に出馬するよう依頼した。一方のスミスは自らの地元でも共和党のハーバート・フーヴァーに敗れ、大統領選で大敗したが、他方のルーズベルトは知事に当選、改革派知事として多くの新しい社会計画を行った[注釈 13]。1930年の再選の選挙運動では、ルーズベルトはニューヨーク市のタマニー協会の協力を必要とした。しかしながら、共和党の対抗馬チャールズ・H・タトルは選挙の争点としてタマニー協会の不正を取り上げるが、ルーズベルトは70万票以上の差をつけてタトルに勝利、知事2期目を務めることとなった[13]

こうしてルーズベルトは民主党の主要候補となり、1932年の大統領選に出馬する。現職のフーヴァーの劣勢が明らかだったため、指名戦は激しい争いとなった。アル・スミス(ニューヨーク州)は1928年の立候補に続き何名かの有力者の支持を取り付けるが、ニューヨーク民主党はルーズベルトが支配した。ルーズベルトは個人的なつきあいのある新聞王ウィリアム・ランドルフ・ハーストアイルランド系アメリカ人コミュニティの指導者ジョセフ・P・ケネディ、カリフォルニアの有力者ウィリアム・マカドゥーらの人脈を、自らの全国的な支援運動に組み込んだ。テキサスの指導者、ジョン・N・ガーナーがルーズベルト支持を表明し、ルーズベルトから副大統領候補に指名された。選挙戦は「三つのR - 救済、回復および改革」[注釈 14]の綱領で世界恐慌と戦うとして行われ、そのスピーチの中でニューディール(新規まき直しの意味)という用語を使用[注釈 15]。選挙戦では、現職大統領フーヴァーの財政政策を無駄使いの権化(ごんげ)と徹底的に批判し、連邦政府の運営コスト削減の仕事を自分に任せてほしいと、緊縮財政を主張して政権を奪取した[14]。1932年の選挙に勝った翌1933年2月15日、フロリダ州マイアミでルーズベルトは暗殺の難を逃れ[15]、暗殺者はシカゴ市長アントン・J・サーマクを殺害した。.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}


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