フランクリン・ルーズベルト
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オイスター・ベイの共和党員であった第26代大統領セオドア・ルーズベルトはフランクリンの遠縁の従兄であった。両家は政治的な違いにもかかわらず、親交が続いた[注釈 4]

母のサラ・デラノ(Sara Delano, 1854年 - 1941年)はフランスプロテスタント教徒(ユグノー)であり[注釈 5][要出典]、デラノ一族は阿片戦争のころから中国()とアヘンを含む貿易を手広く行って財を為していた@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}[4][疑問点ノート]。フランクリンは母サラの唯一の子供(大変な難産)として、再婚だった父ジェームズが54歳の時に生まれた。母違いの長兄ジェームズにはすでに息子があり、つまり父には孫より幼い息子であった。サラはフランクリンの幼少時のみならず、生涯、支配的な影響を与えた[注釈 6][要出典]。愛犬ファラとともに

この時代の富豪の子弟の例に漏れず、フランクリンは家庭教師の手によって教育を施された。同世代の子供と交流する機会はほとんどなかった。14歳の時、名門グロトン校に入学を果たしたものの、寄宿舎生活にはなじめなかった。1904年ハーバード大学1908年にはコロンビア大学ロースクールを卒業。大学時代のフランクリンは学内紙の編集長を務める活躍ぶりを見せる一方で、セオドアも会員名簿に名を連ねていた名門クラブ『ポーセリアン』への入会に失敗している。

1908年にウォール・ストリート法律事務所での仕事を引き受ける前、1905年聖パトリックの祝日にセオドア・ルーズベルトの姪(弟の子)であるアナ・エレノア・ルーズベルトと結婚した。この結婚式で、すでに亡くなっていた実父に代わり花嫁エレノアの腕を取ったのは大統領セオドア・ルーズベルトである。6人の子供(5男1女)[注釈 7]をもうけ、4番目に生まれた息子エリオットはのちに作家となった。

1911年10月11日、フリーメイソンに加入した[6][7]
初期の政治経歴と海軍との関係

1910年の州議会議員選挙でダッチェス郡から州上院に出馬。同郡では1884年以来民主党からの議員を選出していなかった。選挙では地滑り的勝利で当選する。1911年1月1日に議員に就任し、民主党を支配していた「タマニー・マシーン」に対する「反対分子」グループのリーダーとなった。連邦上院議員選挙が1911年1月16日、民主党幹部会議と共に始まり、二つの派閥の争いのため74日間行き詰まることとなる。3月31日にジェームズ・A・オゴーマンが選出され、タマニー派の候補ウィリアム・F・シーハンを打ち破ることでルーズベルトは目的を達成し、ニューヨークの民主党においても名声が高まった[注釈 8]

1913年、当時の大統領ウッドロウ・ウィルソンによって海軍次官に任命された。海軍長官ジョセファス・ダニエルズの下で同職を務め[注釈 9]、海軍の拡張に尽力し、海軍予備役部隊を設立した。中米およびカリブ海諸国への干渉のために海軍と海兵隊を派遣した。1920年の大統領選挙において、副大統領候補のルーズベルトは海軍次官として1915年にハイチに課した憲法を起草したと主張した[注釈 10]

ルーズベルトは生涯を通じて海軍への愛情を育んだ。彼は海軍予算を承認させるため議会のリーダーとその他の政府の各省と交渉した。潜水艦の導入と、ドイツ潜水艦による連合国船団への脅威に対抗する戦力導入の熱心な支持者であった。そして、ノルウェーからスコットランドまでの北海に機雷を敷設し、機雷原を作り上げるよう提案した。1918年にはイギリスフランスを訪問し、アメリカ海軍の施設を視察した。この訪問で彼は初めてウィンストン・チャーチルと面会した。1918年11月に第一次世界大戦が終了すると、ルーズベルトは復員業務を担当し、一方海軍の完全解体計画に反対した。1920年7月、ニューポート・セックススキャンダル(en)に関連した報道で海軍次官を辞職し[注釈 11]、副大統領候補として大統領選に出馬した。

1920年民主党全国大会でルーズベルトは副大統領候補に選出され、大統領候補、オハイオ州知事ジェームズ・コックスと共に選挙戦に突入した。


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