フランクリン・ルーズベルト
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中国に対しては中国人排斥法を廃止し、日中戦争の際に?介石を強く支持して莫大な軍事費の借款を行っていた上に、同国との利権も多かった[要出典]ためにアメリカと友好関係にあった国々から「中国びいき」と言われた[誰によって?]。詳細は「チャイナ・ロビー」を参照

ルーズベルトはアメリカ政治史上で唯一4選された大統領である。初代のワシントン大統領が3選を固辞した故事から大統領は2選までというのが慣例だったが、戦時・有事を理由に1940年・1944年の大統領選挙に立候補して当選した。後に憲法改正によって(修正第22条:1951年)、正式に大統領は2期までと定められた。

アメリカ経済の回復は同時に第二次世界大戦が起こるまでの間、デトロイト市の大工業地帯[要出典]を枢軸国に対する「民主主義の兵器廠」に発展させた。これは戦後アメリカが国際的な覇権を握る原動力となった。連合国を提唱したルーズベルトの平和に対する国際組織の展望は死後に国際連合として結実した。

ルーズベルトの評価は立場で大きく分かれる。リベラル派(自由主義)から見ると、ニューディール政策をはじめとしたケインズ福祉国家的政策の開始は「恐慌への対策を具体化したもの」として評価され、「はじめて本格的な貧困層対策に取り組んだ」大統領として評価される。それまで南部地域政党的色彩が強かった民主党に「世界恐慌の結果発生した貧困層の救済」という新たな目的を打ち出し、この2つの支持基盤を合わせる事によって「ニューディール連合」と呼ばれる大きな民主党支持基盤を形成してその後数十年に渡る議会における民主党の優位をもたらした。

保守派の中でもレーガンは、ルーズベルトのリーダーシップを賞賛した。他方、小さな政府を唱える保守派はニューディールにきわめて否定的な評価をしており、民主党のニューディール連合を崩すことで1980年代以降の共和党の勢力拡大は成功したといえる。ニューディール政策については、現在でも経済学者の間でその評価は分かれている。

また、最高裁判所判事の人事への介入による三権分立の民主主義原則への抵触や、大戦中に日系アメリカ移民強制収容を行った事や、政権期間を通じて行われたアフリカ系アメリカ人公民権運動に対する事実上の妨害という人種差別的観点から行われた政策は、その立場を問わず各方面からの大きな批判を招いただけでなく、アメリカにおける人種差別の解消を遅らせる要因の1つとなった。

民主党政権としての「貧困層」と「人種マイノリティ」という別々の背景を持ったアメリカ社会における弱者に対する矛盾した態度の解決は、1960年代ジョン・F・ケネディリンドン・B・ジョンソンの政権まで持ち越された。

在任日数4422日はアメリカ合衆国大統領史上最長の任期である。
生い立ちと家族1884年撮影。当時のアメリカなど西洋社会の上流階級の家庭では、6歳から7歳ごろに行われるブリーチングまで男児にも女児向けの格好をさせることが一般的に行われていた。

1882年1月30日ニューヨーク州北部のハイドパークで誕生する。父のジェームズ・ルーズベルト(1828年 - 1900年)はデラウェア・アンド・ハドソン鉄道の副社長であり裕福な地主であった。ルーズベルト家[注釈 3]1650年ごろにオランダハールレムからニューヨーク(当時はニュー・アムステルダム)に移住したクラース・ヴァン・ルーズベルトに始まる。1788年にアイザック・ルーズベルトがポキプシーで行われたアメリカ合衆国憲法制定会議のメンバーとなり、それは曾々孫であるフランクリンの大きな誇りとなった。父親とともに

18世紀にルーズベルト家は「ハイドパーク・ルーズベルト」家(19世紀から民主党支持)と「オイスター・ベイ・ルーズベルト」家(共和党支持)の二つに分かれる。オイスター・ベイの共和党員であった第26代大統領セオドア・ルーズベルトはフランクリンの遠縁の従兄であった。両家は政治的な違いにもかかわらず、親交が続いた[注釈 4]

母のサラ・デラノ(Sara Delano, 1854年 - 1941年)はフランスプロテスタント教徒(ユグノー)であり[注釈 5][要出典]、デラノ一族は阿片戦争のころから中国()とアヘンを含む貿易を手広く行って財を為していた@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}[4][疑問点ノート]。フランクリンは母サラの唯一の子供(大変な難産)として、再婚だった父ジェームズが54歳の時に生まれた。母違いの長兄ジェームズにはすでに息子があり、つまり父には孫より幼い息子であった。サラはフランクリンの幼少時のみならず、生涯、支配的な影響を与えた[注釈 6][要出典]。愛犬ファラとともに

この時代の富豪の子弟の例に漏れず、フランクリンは家庭教師の手によって教育を施された。同世代の子供と交流する機会はほとんどなかった。14歳の時、名門グロトン校に入学を果たしたものの、寄宿舎生活にはなじめなかった。1904年ハーバード大学1908年にはコロンビア大学ロースクールを卒業。大学時代のフランクリンは学内紙の編集長を務める活躍ぶりを見せる一方で、セオドアも会員名簿に名を連ねていた名門クラブ『ポーセリアン』への入会に失敗している。

1908年にウォール・ストリート法律事務所での仕事を引き受ける前、1905年聖パトリックの祝日にセオドア・ルーズベルトの姪(弟の子)であるアナ・エレノア・ルーズベルトと結婚した。この結婚式で、すでに亡くなっていた実父に代わり花嫁エレノアの腕を取ったのは大統領セオドア・ルーズベルトである。6人の子供(5男1女)[注釈 7]をもうけ、4番目に生まれた息子エリオットはのちに作家となった。

1911年10月11日、フリーメイソンに加入した[6][7]
初期の政治経歴と海軍との関係

1910年の州議会議員選挙でダッチェス郡から州上院に出馬。同郡では1884年以来民主党からの議員を選出していなかった。選挙では地滑り的勝利で当選する。1911年1月1日に議員に就任し、民主党を支配していた「タマニー・マシーン」に対する「反対分子」グループのリーダーとなった。連邦上院議員選挙が1911年1月16日、民主党幹部会議と共に始まり、二つの派閥の争いのため74日間行き詰まることとなる。3月31日にジェームズ・A・オゴーマンが選出され、タマニー派の候補ウィリアム・F・シーハンを打ち破ることでルーズベルトは目的を達成し、ニューヨークの民主党においても名声が高まった[注釈 8]

1913年、当時の大統領ウッドロウ・ウィルソンによって海軍次官に任命された。海軍長官ジョセファス・ダニエルズの下で同職を務め[注釈 9]、海軍の拡張に尽力し、海軍予備役部隊を設立した。


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