フランクフルト学派
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

フランクフルト学派に関連して「文化的マルクス主義」と呼ばれる陰謀論がある[1][2][3][4][5]。この陰謀論は右派の政治家や宗教指導者、政治コメンテーター、白人至上主義テロリストによって支持されている[6]
沿革
発端

1922年夏、ドイツテューリンゲン州イルメナウで第1回マルクス主義研究集会が開催された。

主催者はフランクフルト大学のフェリクス・ヴァイル(ドイツ語版)で、この会議の主なる目的はマルクス主義の新潮流を模索することであり、一週間に渡る会議においてはマルクス主義に関する話題が議論された[7]。この研究会に参加したメンバーはルカーチ・ジェルジカール・コルシュ、当時留学中で両氏からマルクス主義を学んでいた福本和夫、後に日本でゾルゲスパイ団のリーダーとしてスパイ容疑により逮捕・死刑となるリヒャルト・ゾルゲ、かつてはローザ・ルクセンブルクと活動を共にしたフェミニスト・女性解放運動家でドイツ共産党中央委員・コミンテルン代表委員を歴任したこともあるクララ・ツェトキン、フリードリヒ・ポロック、後にフランクフルト学派のメンバーになるカール・ウィットフォーゲルなどであった。この他に多くのマルクス研究家、その家族などが参加した。

フェリクス・ヴァイルは第2回マルクス主義研究集会を計画したが、やがて独立した研究機関の設置の必要性を強く感じ、彼の父の出資を受けてフランクフルト社会研究所を設置する。
年表
第二次大戦前

1924年6月24日、マルクス主義の研究を継続する機関「社会研究所」(Institut fur Sozialforschung)が設置され、カール・グリュンベルク(ドイツ語版)が所長に就任した。

1927年、社会研究所初代所長のカール・グリュンベルクが病気で倒れる。

1930年マックス・ホルクハイマーがフランクフルト大学正教授に就任、同時に社会研究所の2代目所長に就任。

1931年1月、マックス・ホルクハイマーの社会研究所所長就任公開演説が行われる。同年ホルクハイマーはナチの台頭により社会研究所の国外分散を検討、最終的にジュネーブに設置。また社会研究所基金は後にオランダに移される。

1932年の暮、ヘルベルト・マルクーゼが社会研究所所員になる。

1933年1月、フランクフルト社会研究所はナチス突撃隊の襲撃を受ける。6万冊に及ぶ蔵書が押収され3月までに研究所は閉鎖。

2月、ホルクハイマーがジュネーブに移住する。この時欧州各地に分室や研究者が分散した事から「国際社会研究協会」という名称になり、ホルクハイマーとポロックが共同で会長になる。

4月、ホルクハイマーがフランクフルト大学の教授職を解任される。フランツ・ノイマンが社会民主党左派の活動を行って逮捕される(後釈放され1ヶ月後にロンドンに逃れる)。

1934年、スイスにおいてもナチの手が伸びており危険と判断、ロンドンとパリに社会研究所分室を設置。同時期にホルクハイマーは渡米、ニューヨークを訪問する。当時コロンビア大学の学長だったニコラス・バトラーからコロンビア大学への社会研究所移転の提案を受ける。同年夏?秋にかけて社会研究所移転および所員のアメリカ亡命が始まる。ホルクハイマーがニューヨークに移住。

1935年、フェリクス・ヴァイルがニューヨークで再び社会研究所に参加、改めて10万ドルを寄贈したことで研究所は財政的に持ち直す。

1936年、「権威と家族」出版。フランツ・ノイマンが渡米、社会研究所に参加。後にアメリカの戦時機関である「経済戦争委員会」のコンサルタントに就任。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:47 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef