この頃社会研究所は財政難に陥いった。アメリカに亡命した多くの研究所メンバーは生活に困窮し、様々な副業(大学の臨時講師、法律関係のアドバイザーなど)でしのいだが、やがて戦時において優秀な頭脳を求める多数の政府機関が彼らの持つ学問的スキルや知識、情報を求めてリクルートした。
一部はO,S,Sの中枢で活動、ドイツと日本の情報分析と戦後政策の策定に深く関与した。とくにドイツの戦後政策策定に関してはフランツ・ノイマン、ヘルベルト・マルクーゼらが関わっており、ニュルンベルク裁判ではフランツ・ノイマンが法学の知識を活かして深く関与した。 1960年代、世界各地で大学紛争の渦が巻き起こった時代に、新左翼の運動の支柱となる理論を求めて、このグループに注目が集まったが、フランクフルト大学における大学紛争ではアドルノが批判の対象となり、社会研究所は学生たちによって占拠された。アドルノは機動隊を導入して学生を排除し、裏切り者と罵倒された[8]。 一方ドイツに帰国せずアメリカに残ったヘルベルト・マルクーゼは当時のアメリカ各地の大学で起きた大学紛争運動などの活動家に向けて積極的に発言し、「新左翼の教組」というポジションで広く受け入れられた。同様にフランクフルト学派第二世代のユルゲン・ハーバーマスも新左翼の中で受け入れられ、広く支持された。 ヘーゲル左派の影響が垣間見られる。ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルとカール・マルクスの視点(弁証法哲学)をもって、科学と哲学の統合による社会哲学(「批判理論」)によって、非合理的な社会からの人間の開放を目指す実践的な姿勢によって特徴づけられる。第一世代とされる人々は、マルクスの「経済学批判」に根拠を求め、資本主義社会が滅びた後に「理性」の実現を予見し、既存の制度を厳しく批判した[9]。二代目所長のホルクハイマーはジークムント・フロイトの心理学を取り入れることを強く意識した(研究所所長就任演説など)。この結果多くの研究所メンバーがとフロイト派の心理学とマルクス思想の融合を試みた(エーリヒ・フロム、ヘルベルト・マルクーゼなど)。
(フランツ・ノイマンについては1995年に公開されたヴェノナファイルによってソヴィエトのスパイ(暗号電文上のコードネームは“ラフ”)として活動していたでことが判明している)
1942年、フランツ・ノイマンが戦略諜報局(OSS。CIAの前身)調査分析中欧課に入り、対独情報分析にあたる一方で「ビヒモス」(1944年に増補版刊行)を出版する。
1945年、フランツ・ノイマンがアメリカ合衆国国務省のドイツ調査部門の責任者に就任。
終戦後
1947年、「啓蒙の弁証法」がオランダの出版社からドイツ語で刊行される。フランツ・ノイマンがコロンビア大学の教授に就任。
1954年9月2日、フランツ・ノイマンがスイスにて自動車事故で死亡。
戦後
思想的特徴