フランクフルト・ゲットー
[Wikipedia|▼Menu]
旧約聖書」時代(紀元前13世紀頃)、モーセに率いられてエジプトを脱出するまで、ユダヤ人がエジプトで捕囚になっていたことをフランクフルトのゲットーに当てはめた物であった[21][22]
フェットミルヒの反乱の際の略奪1614年8月22日のフランクフルト・ゲットー略奪の様子を描いた絵

フランクフルト参事会は門閥市民により牛耳られていた。そのため、門閥市民と下層中層市民との間には常に対立があった。シュマルカルデン戦争に参加して莫大な借金を負ったフランクフルト市は、1576年に増税を行ったが、その課税システムは上流市民に有利なもので下層市民の生活はますます厳しくなるものだった。

オーストリア大公マティアスの皇帝への選挙と戴冠式を契機に参事会と市民の関係は険悪になった。参事会だけでは収拾できなくなり、参事会は皇帝マティアスに助力を求めた。1612年にマティアスの検察使のマインツ大司教ヨハン・シュヴァイクハルト・フォン・クロンベルク(ドイツ語版)とヘッセン=ダルムシュタット方伯ルートヴィヒ5世が代理をフランクフルトに派遣して参事会と市民の間に協定を結ばせて和解させた。しかし結局この協定は守られず、両者の決裂は続いた。1614年5月に市民側のリーダーヴィンツェンツ・フェットミルヒ(英語版)は反乱を起こして参事会員や検察使代理を監禁した。反乱市民は1614年8月29日には暫定参事会を発足させた[23]

反乱市民たちの中でも特に生活苦に喘いでいた急進派は、反乱の最中の1614年8月22日午後5時から翌日の午前6時ぐらいにかけてゲットーへなだれ込んで略奪を行っている。彼らの言い分によると「ユダヤ人は参事会と結び付き、低利で都市金庫から融資を受け、それを市民に高利で貸し付けている」ためだった[23]。指導者の命令によりユダヤ人殺害は行われなかったが、ユダヤ人の財産が大量に彼らに略奪されてしまった。この略奪の間、ゲットーのユダヤ人たちは隣接するユダヤ人墓地に避難した。さらに8月23日にはユダヤ人たちはマイン川から船出してフランクフルト市を去って近隣の村に四散した[24]。ユダヤ人は一年近くフランクフルトから離れることとなった[25]

皇帝マティアスはフェットミルヒらに帝国迫害罪を宣告した。フランクフルトはマインツ大司教軍とヘッセン=ダルムシュタット方伯軍に包囲され、1614年12月9日にフェットミルヒは逮捕された。フェットミルヒら反乱指導者は処刑され、反乱に加担したとみなされた2000人以上の市民にも罰金刑が課せられた[26]

ユダヤ人たちはちょうどフェットミルヒが処刑された1616年2月28日にフランクフルト・ゲットーに帰還した。ユダヤ人達は楽隊とともに祝いながら帰還した。さらに皇帝の勅命によりユダヤ人の被った損害の賠償金としてキリスト教市民は17万5919フィレンツェ・フロリンの支払いを命じられた。ユダヤ人達はこれに感謝し、ゲットーの門に皇帝の鷲印と「ローマ皇帝陛下と神聖ローマ帝国の保護の下に」という銘刻を施した。フランクフルト・ユダヤ人団体はゲットーを追われた日と帰還の日を「プーリーム・フェットミルヒの日」として祝日にするようになった[25]
1711年のゲットーの大火

1711年1月14日にゲットーで大火があった。これによってゲットーの家屋はほとんど焼失してしまった。被害が大きくなったのは水の不足もあったが、それ以上にユダヤ人が市民の略奪を恐れてゲットーの門を長時間にわたり閉ざし、救援に来た市民が入れなかったせいであった。しかしこれはあながち杞憂とは言い切れなかった。これと似た事件は後のフランス軍の攻撃でゲットーが炎上した際にも起こっている。この際には本当に市民がゲットーで火事場泥棒の略奪を行っている。ユダヤ人達はゲットー外の略奪者を常に心配しながら暮さねばならなかった[27]

この大火の後、市参事会はユダヤ人たちに再建されるまでゲットー外で暮らす事を認めた。この際、ユダヤ人の間にはゲットー外で暮らすのが既成事実化して居住の自由が認められるかもしれないという期待が広がったが、結局1716年にはフランクフルト市内の全てのユダヤ人は全員ゲットーへ戻るよう命じられた[28]
フランス軍の攻撃と解放1796年7月12日から7月14日にかけて行われたフランス軍によるフランクフルト市への砲撃の様子を描いた絵

1792年4月、フランスのジロンド党政権は神聖ローマ帝国・オーストリアフランス革命への干渉に怒り、オーストリアに対して宣戦を布告した(フランス革命戦争))。帝国自由都市として中立を宣言していたフランクフルト市は、フランス革命軍がやってくると無血開城した。フランス軍司令官は「ユダヤ人にも市民的平等を与える」と宣言していたが、6週間後にはプロイセン軍がフランス軍をフランクフルトから追ったため、ゲットーの解放は実現せずに終わった。しかし1796年7月にフランス軍は再度フランクフルトへ迫った。この時は市内にオーストリア軍が駐留していたのでフランクフルト市は開城を拒否し、1796年7月12日から7月14日にかけてフランス軍の激しい砲火を浴びた。13日夜から14日にかけての砲撃によりゲットーも炎上し、住民の三分の二が住居を失ってしまった(ゲットーの住居の大半は木造でぴったりくっついて並んでいるため延焼した)。しかしこの攻撃が330年にわたったフランクフルト・ゲットーの歴史を終焉させることとなった[29]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:59 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef