フランクフルト・アム・マイン
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

活版印刷術の発明以後、書籍取引が新たに重要な地位を占めたが、16世紀以降はライプツィヒ の大市(Messe)と競うことになった[29]

13世紀前期に市壁が完成したが、市壁内の面積は約40haであった。1222年に市と郊外のザクセンハウゼンとをつなぐ石造の橋が架けられた。1405年には市庁舎(レーマー)が建てられた。1387年の住民台帳によれば、市の人口は約9600人であった。13世紀初頭ユダヤ人の人口は約200人であったが、1241年1349年の迫害(1348年のペスト流行を機縁)によりユダヤ人の姿は市内に見えなくなった。その後再びユダヤ人の移住がみられたが、1462年には収容所に隔離された。13世紀前半には ベギン会の会員もいた[30]

フランクフルトは1220年帝国自由都市となった。


1806年、旧帝国の滅亡に伴い、フランクフルトは領主司教カール・テオドール・フォン・ダールベルクの支配下に置かれ、自らの領邦であったレーゲンスブルクおよびアシャッフェンブルクとともにライン同盟内で独立領邦を形成した。

1810年にダールベルクはレーゲンスブルクをバイエルン公に割譲し、これと交換にハーナウフルダを得た。これらとフランクフルト市やアシャッフェンブルク地方を併せて、1810年から1813年までの短期間ではあるがフランクフルト大公国を創設した。

ナポレオン体制後1848年のパウルス教会でのフランクフルト国民議会

ナポレオン体制の崩壊により、フランクフルトは1813年12月14日に戦勝連合国によってフリードリヒ・マクシミリアン・フォン・グリュンダーローデの支配下に置かれた。

ウィーン会議バイエルン王国はフランクフルトの併合を目論んだが、1815年6月8日に会議はフランクフルトをドイツ連邦内の自由都市とすることを決定した。これによりフランクフルトはハンブルクブレーメンリューベックと並ぶ 4つの自由都市の一つとなった。この伝統的な都市自由権は近代に至るまで存続した。ドイツ連邦の連邦議会はフランクフルトで開催された。

1848年、ドイツで三月革命が起こった。招集された国民議会はフランクフルトのパウルス教会で開催された。

普墺戦争

1866年普墺戦争では、フランクフルトは連邦に忠実であった。公式な立場はオーストリアや皇帝の側であったが、経済や外交的理由からプロイセン王国との連携を支持するべきだとの意見が古くからあった。この街は7月18日にプロイセンのライン軍によって占領され、重い軍税を課された。10月2日にプロイセンはこの都市を併合し、これによりこの都市の独立は失われた。フランクフルトはヘッセン=ナッサウ州ヴィースバーデン県に編入され、軍税の支払いはその後免除された。

1868年にプロイセンは、上級市長を市の代表者とする市参事会制度をフランクフルトに布いた。

1871年普仏戦争フランクフルト講和条約をもって公式に終結した。

ドイツ帝国

プロイセンによる併合は、市の急速な人口増加を伴う工業都市への発展にとって有利であった。フランクフルトは、1877年から1910年までの間に何段階にもわたって周辺の町村を合併し、その面積を 70 km2 から 135 km2 に拡大した。これによりフランクフルトは20世紀の初めには、短い期間ではあったが、ドイツで最も広い都市となった。急速な人口増加に伴い市は公的なインフラストラクチャーを整備していった: 多くの学校やマイン川の橋、上水道、下水道、近代的な職業消防隊、屠殺場および食肉加工場、マルクトハレ、路面電車、駅、港などが含まれる。

工業化はまず、ボッケンハイム区や、マインツァー・ラントシュトラーセあるいはザクセンハウゼン・ラントシュトラーセといった街道沿いで進行し、1909年から1912年に工業地域を伴う東港が整備された。新たに開発されたこの工業地区の面積は、19世紀末時点でのマイン川北岸の全市域面積に匹敵するほど広大なものであった。フランクフルトの伝統的な産業である鋳造や金属加工あるいは活字鋳造や印刷業の他に、化学工場や、1891年の国際電子博覧会以降は電子産業もこの街に進出した。

1914年、フランクフルト市民の寄附によって総合大学が創設された。
第二次世界大戦の空爆でほぼ完全に破壊されたフランクフルト中心部(1945年)

フランクフルトは、第一次世界大戦による破壊を免れたが、プロイセンに属すヘッセンとバイエルンとの国境にあたるその立地のために、食料品や日用品の不足に苦しめられた。

1918年11月革命の際には暴動が起き、時には市街戦が行われる状況が1919年末まで続いた。


1920年代にフランクフルトは文化的隆盛を迎えた。特に演劇や、近代的キッチンの祖型として国際的に名高いフランクフルトキッチンを含む都市計画新フランクフルトプログラムがその代表である。

1925年ヴァルトシュタディオンで第1回国際労働者オリンピックが開催された。

国家社会主義からWW2

国家社会主義の時代には、11,134人のユダヤ人がフランクフルトから追放され、殺害された。

第二次世界大戦では、連合国によるフランクフルト空襲によって市域の約70%、特にアルトシュタット及びインネンシュタットはほぼ完全に破壊された。これにより、密集した中世の街並みは1944年までに失われ、1950年代の復興において古い街並みが復元されることはなかった。アルトシュタットの多くの部分には、この時代に建設された簡潔で近代的な合目的建造物や合理的道路配置が今日も残っている。

戦後

1945年初頭には
連合国遠征軍最高司令部 (SHAEF) がベルサイユ宮殿から移動し、フランクフルトに司令部を置いた。

終戦後、アメリカ合衆国の軍事政府はこの街を本拠地とした。その後、フランクフルトにトリゾーン(米英仏管理地域)の統治機関が置かれた。

1949年5月10日、連邦の首都を定める選挙でフランクフルトは、コンラート・アデナウアーが推すボンに敗れた[注釈 2]。だが、フランクフルトには既に国会議事堂が建てられていた。この建物は現在ヘッセン放送が使用している。戦後、フランクフルトは経済の中心地となり、1998年には欧州中央銀行の所在地となった。

沿革
市町村合併

1866年までフランクフルト・アム・マインの市域は、現在の市区でアルトシュタット、インネンシュタット、バーンホーフスフィアテル、グートロイトフィアテル、ガルス、ヴェストエント、ノルトエント、オストエント、リーダーヴァルトおよびザクセンハウゼン(都市林「フランクフルター・シュタットヴァルト」を含む)の「シュタットベツィルク」(都市管区)と、ボルンハイム、ハウゼン、ニーダーウルゼル(
ヘッセン大公と折半)、ボナメス、ニーダー=エルレンバッハ、ドルテルヴァイル、オーバーラート、ニーダーラートの 8つの村からなる「ラントベツィルク」(周辺管区)で構成されていた。

プロイセン王国による自由都市フランクフルト併合後は、フラクフルト都市クライスが形成された。

1877年から都市クライスの町村が合併。

1910年からは1855年に形成されたフランクフルト郡の町村も、徐々にフランクフルト市に合併されていった。

1977年を最後に合併が完了。かつてフランクフルトに属していた8つの村のうち、ドルテルヴァイルだけは、市域から外れた。

政治
行政フランクフルト市庁舎

フランクフルト基本条例とヘッセン州自治体法がこの街の骨格を定めている。
市長

フランクフルトは、2013年現在、CDUGruneの連立野党と上級市長ペーター・フェルトマンによって運営されている。2012年7月1日にそれまでの上級市長ペトラ・ロートが引退を宣言し、ペーター・フェルトマンがこの職に就任した。SPDの候補者であったフェルトマンはCDUの候補者でヘッセン州内務大臣のボリス・ラインに対して、2012年3月15日の決選投票で 57.4 % の過半数を獲得し、当選を果たした。ラインは、3月11日の一次選挙の時点ではフェルトマンの票を上回っていた[31][32]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:295 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef