フランクフルトは1074年Zollstatte(仮訳「関税地」)として記録されている。フランクフルトの商人の免税が記録されている最初の文書は、ヴォルムス 1184年と伝えている。1170年ころから貨幣が鋳造されている。1160年ころには初めて大市(Messe)が開催された。1180年にはフランクフルトの商人の特権(Rechte und Freiheiten)がヴェッツラーの特権(Privilegierung)のモデルになった。1240年 神聖ローマ皇帝 フリードリヒ2世はフランクフルトの大市(Messe)を訪れる者に対して特別な保護を保証した。1330年 ルートヴィヒ4世はフランクフルトに春と秋、年2回の大市(Messe)を開催することを許可した。14世紀初めの シャンパーニュの大市(Messe)の衰退によって利益を得、神聖ローマ帝国の経済的中心地の一つになった。商品交換において重要な商品は、ワイン、鰊、毛皮等であったが、特に重要だったのは毛織物で、フランクフルトは14世紀毛織物工業の中核地域となった。当時、手工業者は17個のツンフト(同職組合)に組織されていた。 活版印刷術の発明以後、書籍取引が新たに重要な地位を占めたが、16世紀以降はライプツィヒ の大市(Messe)と競うことになった[29]。
13世紀前期に市壁が完成したが、市壁内の面積は約40haであった。1222年に市と郊外のザクセンハウゼンとをつなぐ石造の橋が架けられた。1405年には市庁舎(レーマー)が建てられた。1387年の住民台帳によれば、市の人口は約9600人であった。13世紀初頭ユダヤ人の人口は約200人であったが、1241年と 1349年の迫害(1348年のペスト流行を機縁)によりユダヤ人の姿は市内に見えなくなった。その後再びユダヤ人の移住がみられたが、1462年には収容所に隔離された。13世紀前半には ベギン会の会員もいた[30]。 プロイセンによる併合は、市の急速な人口増加を伴う工業都市への発展にとって有利であった。フランクフルトは、1877年から1910年までの間に何段階にもわたって周辺の町村を合併し、その面積を 70 km2 から 135 km2 に拡大した。これによりフランクフルトは20世紀の初めには、短い期間ではあったが、ドイツで最も広い都市となった。急速な人口増加に伴い市は公的なインフラストラクチャーを整備していった: 多くの学校やマイン川の橋、上水道、下水道、近代的な職業消防隊、屠殺場および食肉加工場、マルクトハレ、路面電車、駅、港などが含まれる。 工業化はまず、ボッケンハイム区や、マインツァー・ラントシュトラーセあるいはザクセンハウゼン・ラントシュトラーセといった街道沿いで進行し、1909年から1912年に工業地域を伴う東港が整備された。新たに開発されたこの工業地区の面積は、19世紀末時点でのマイン川北岸の全市域面積に匹敵するほど広大なものであった。フランクフルトの伝統的な産業である鋳造や金属加工あるいは活字鋳造や印刷業の他に、化学工場や、1891年の国際電子博覧会以降は電子産業もこの街に進出した。 フランクフルトは、第一次世界大戦による破壊を免れたが、プロイセンに属すヘッセンとバイエルンとの国境にあたるその立地のために、食料品や日用品の不足に苦しめられた。 国家社会主義の時代には、11,134人のユダヤ人がフランクフルトから追放され、殺害された。
フランクフルトは1220年に帝国自由都市となった。
1806年、旧帝国の滅亡に伴い、フランクフルトは領主司教カール・テオドール・フォン・ダールベルクの支配下に置かれ、自らの領邦であったレーゲンスブルクおよびアシャッフェンブルクとともにライン同盟内で独立領邦を形成した。
1810年にダールベルクはレーゲンスブルクをバイエルン公に割譲し、これと交換にハーナウとフルダを得た。これらとフランクフルト市やアシャッフェンブルク地方を併せて、1810年から1813年までの短期間ではあるがフランクフルト大公国を創設した。
ナポレオン体制後1848年のパウルス教会でのフランクフルト国民議会
ナポレオン体制の崩壊により、フランクフルトは1813年12月14日に戦勝連合国によってフリードリヒ・マクシミリアン・フォン・グリュンダーローデの支配下に置かれた。
ウィーン会議でバイエルン王国はフランクフルトの併合を目論んだが、1815年6月8日に会議はフランクフルトをドイツ連邦内の自由都市とすることを決定した。これによりフランクフルトはハンブルク、ブレーメン、リューベックと並ぶ 4つの自由都市の一つとなった。この伝統的な都市自由権は近代に至るまで存続した。ドイツ連邦の連邦議会はフランクフルトで開催された。
1848年、ドイツで三月革命が起こった。招集された国民議会はフランクフルトのパウルス教会で開催された。
普墺戦争
1866年の普墺戦争では、フランクフルトは連邦に忠実であった。公式な立場はオーストリアや皇帝の側であったが、経済や外交的理由からプロイセン王国との連携を支持するべきだとの意見が古くからあった。この街は7月18日にプロイセンのライン軍によって占領され、重い軍税を課された。10月2日にプロイセンはこの都市を併合し、これによりこの都市の独立は失われた。フランクフルトはヘッセン=ナッサウ州ヴィースバーデン県に編入され、軍税の支払いはその後免除された。
1868年にプロイセンは、上級市長を市の代表者とする市参事会制度をフランクフルトに布いた。
1871年、普仏戦争はフランクフルト講和条約をもって公式に終結した。
ドイツ帝国
1914年、フランクフルト市民の寄附によって総合大学が創設された。
第二次世界大戦の空爆でほぼ完全に破壊されたフランクフルト中心部(1945年)
1918年の11月革命の際には暴動が起き、時には市街戦が行われる状況が1919年末まで続いた。
1920年代にフランクフルトは文化的隆盛を迎えた。特に演劇や、近代的キッチンの祖型として国際的に名高いフランクフルトキッチンを含む都市計画新フランクフルトプログラムがその代表である。
1925年にヴァルトシュタディオンで第1回国際労働者オリンピックが開催された。
国家社会主義からWW2
第二次世界大戦では、連合国によるフランクフルト空襲によって市域の約70%、特にアルトシュタット及びインネンシュタットはほぼ完全に破壊された。