フランクフルト・アム・マイン
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しかし、ホーエンシュタウフェン朝においては再び王・皇帝の滞在が頻繁になり、宮廷会議がこの地で開かれた[21]

1241年の帝国租税表(Reichssteuerverzeichnis)に挙げられた都市の中でフランクフルトは最高額250マルク/年の税を納付している(都市以外の租税納付単位を含め、租税全額7100マルク)[22]

中世、フランクフルト市政にとって決定的だったのは、都市君主としての王の無制限の支配権(Stadtherrschaft)であった。1200年ころの フリードリヒ2世によるライヒスフォークタイ(Reichsvogtei)撤廃の後、1184年/ 1185年以降記録にあるシュルトハイス(Schultheis)が王権の最高代理統治権者(der oberste konigliche Amtstrager)として市の行政と司法をリードした。それに当初任命されたのは帝国ミニステリアーレ(Reichsministerialitat)出身者であった。判決発見の役割(Urteilsfinder)は市民側の参審団(Schoffenkolleg)が担ったが、それから参事会(Rat)が発展していった。1311年には市長(Burgermeister)が置かれ、参事会と市長が市の行政を担い、シュルトハイスの機能を制限していった[23]

13世紀から14世紀にかけて、周辺領邦君主の圧迫に対抗して商業の安全を確保するために近隣諸都市と同盟を結んだ。すなわちヴェッテルアウ帝国都市同盟(der Bund wetterauischen Reichsstadte)とライン中流地域ラント平和組織(Mittelrheinische Landfriedenorganisation)においてフランクフルトは指導的役割を演じた[24]

1147年 ドイツ王コンラート3世はこの地の選挙で「息子ハインリヒを国王に当選させた」[25]。その後、1152年3月5日、「帝国の世俗諸侯と聖職者諸侯の全員が」フランクフルトに集まり、シュヴァーベン大公フリードリヒ(フリードリヒ2世バルバロッサ)を「満場一致でドイツ王に選んだ」[26]。以後ほとんどの国王選挙はこの地で行われ、国王選挙地としてのフランクフルトは1356年金印勅書において規定されたが、このことはこの地に帝国法上、傑出した地位を与えた[23]。国王選挙は神聖ローマ帝国終焉の1806年に至るまでの間ほとんど毎回この地で行われたが、戴冠式も1563年からフランクフルトで催された[27]1792年の最後の神聖ローマ皇帝フランツ2世の戴冠式とともに、当市の特別な地位も消滅した。なお、ゲーテはその自伝『詩と真実』第5章(Dichtung und Wahrheit, Erster Teil, Funftes Buch)において、1764年4月に挙行された皇帝フランツ1世と帝妃 マリア・テレジアの息子 ヨーゼフ2世のローマ王戴冠式の盛儀を生き生きと描写している[28]

フランクフルトは1074年Zollstatte(仮訳「関税地」)として記録されている。フランクフルトの商人の免税が記録されている最初の文書は、ヴォルムス 1184年と伝えている。1170年ころから貨幣が鋳造されている。1160年ころには初めて大市(Messe)が開催された。1180年にはフランクフルトの商人の特権(Rechte und Freiheiten)がヴェッツラーの特権(Privilegierung)のモデルになった。1240年 神聖ローマ皇帝 フリードリヒ2世はフランクフルトの大市(Messe)を訪れる者に対して特別な保護を保証した。1330年 ルートヴィヒ4世はフランクフルトに春と秋、年2回の大市(Messe)を開催することを許可した。14世紀初めの シャンパーニュの大市(Messe)の衰退によって利益を得、神聖ローマ帝国の経済的中心地の一つになった。商品交換において重要な商品は、ワイン、鰊、毛皮等であったが、特に重要だったのは毛織物で、フランクフルトは14世紀毛織物工業の中核地域となった。当時、手工業者は17個のツンフト(同職組合)に組織されていた。 活版印刷術の発明以後、書籍取引が新たに重要な地位を占めたが、16世紀以降はライプツィヒ の大市(Messe)と競うことになった[29]

13世紀前期に市壁が完成したが、市壁内の面積は約40haであった。1222年に市と郊外のザクセンハウゼンとをつなぐ石造の橋が架けられた。1405年には市庁舎(レーマー)が建てられた。1387年の住民台帳によれば、市の人口は約9600人であった。13世紀初頭ユダヤ人の人口は約200人であったが、1241年1349年の迫害(1348年のペスト流行を機縁)によりユダヤ人の姿は市内に見えなくなった。その後再びユダヤ人の移住がみられたが、1462年には収容所に隔離された。13世紀前半には ベギン会の会員もいた[30]

フランクフルトは1220年帝国自由都市となった。


1806年、旧帝国の滅亡に伴い、フランクフルトは領主司教カール・テオドール・フォン・ダールベルクの支配下に置かれ、自らの領邦であったレーゲンスブルクおよびアシャッフェンブルクとともにライン同盟内で独立領邦を形成した。

1810年にダールベルクはレーゲンスブルクをバイエルン公に割譲し、これと交換にハーナウフルダを得た。これらとフランクフルト市やアシャッフェンブルク地方を併せて、1810年から1813年までの短期間ではあるがフランクフルト大公国を創設した。

ナポレオン体制後1848年のパウルス教会でのフランクフルト国民議会

ナポレオン体制の崩壊により、フランクフルトは1813年12月14日に戦勝連合国によってフリードリヒ・マクシミリアン・フォン・グリュンダーローデの支配下に置かれた。

ウィーン会議バイエルン王国はフランクフルトの併合を目論んだが、1815年6月8日に会議はフランクフルトをドイツ連邦内の自由都市とすることを決定した。これによりフランクフルトはハンブルクブレーメンリューベックと並ぶ 4つの自由都市の一つとなった。この伝統的な都市自由権は近代に至るまで存続した。ドイツ連邦の連邦議会はフランクフルトで開催された。

1848年、ドイツで三月革命が起こった。招集された国民議会はフランクフルトのパウルス教会で開催された。

普墺戦争

1866年普墺戦争では、フランクフルトは連邦に忠実であった。公式な立場はオーストリアや皇帝の側であったが、経済や外交的理由からプロイセン王国との連携を支持するべきだとの意見が古くからあった。この街は7月18日にプロイセンのライン軍によって占領され、重い軍税を課された。10月2日にプロイセンはこの都市を併合し、これによりこの都市の独立は失われた。フランクフルトはヘッセン=ナッサウ州ヴィースバーデン県に編入され、軍税の支払いはその後免除された。

1868年にプロイセンは、上級市長を市の代表者とする市参事会制度をフランクフルトに布いた。

1871年普仏戦争フランクフルト講和条約をもって公式に終結した。

ドイツ帝国

プロイセンによる併合は、市の急速な人口増加を伴う工業都市への発展にとって有利であった。フランクフルトは、1877年から1910年までの間に何段階にもわたって周辺の町村を合併し、その面積を 70 km2 から 135 km2 に拡大した。これによりフランクフルトは20世紀の初めには、短い期間ではあったが、ドイツで最も広い都市となった。急速な人口増加に伴い市は公的なインフラストラクチャーを整備していった: 多くの学校やマイン川の橋、上水道、下水道、近代的な職業消防隊、屠殺場および食肉加工場、マルクトハレ、路面電車、駅、港などが含まれる。


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