フランクフルト・アム・マイン
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[18] フランクフルトにはおよそ3,700人の日本人が住み、ドイツではデュッセルドルフベルリンに続いて3番目に多く日本人学校もあり、日本の会社や銀行の数も多い。
隣接自治体

西:
マイン=タウヌス郡ハッタースハイム・アム・マインクリフテルホーフハイム・アム・タウヌスケルクハイム (タウヌス)リーダーバッハ・アム・タウヌスズルツバッハ (タウヌス)シュヴァルバッハ・アム・タウヌスエシュボルン

北西:ホーホタウヌス郡シュタインバッハ (タウヌス)オーバーウルゼル (タウヌス)バート・ホムブルク・フォア・デア・ヘーエ

北:ヴェッテラウ郡(カルベン、バート・フィルベル

北東:マイン=キンツィヒ郡ニーダードルフェルデンマインタール

南東:オッフェンバッハ・アム・マイン

南:オッフェンバッハ郡ノイ=イーゼンブルク

南西:グロース=ゲーラウ郡メルフェルデン=ヴァルドルフリュッセルスハイム・アム・マインラウンハイムケルスターバッハ

歴史フランクフルト歴史博物館前のカール大帝像
フランク王国

フランクフルト・アム・マインは、794年2月22日にカール大帝レーゲンスブルク聖エメラム修道院宛に発した文書に初めて記述されている。この文書にはラテン語で次のように書かれている"… actum super fluvium Moin in loco nuncupante Franconofurd"「マイン川の畔にフランクフルトと名付けられた村がある」

すなわち、ドームヒューゲルの集落は新石器時代から継続的に存続していることが証明されている。この村は、おそらくローマの軍事基地となり、メロヴィング朝時代にフランク王国の王宮所在地となった。

カール大帝はこの地に長期間滞在したが、以後1378年までに王・皇帝のここでの滞在は約300回に及んだ。カールの時代には国王荘館(Koniglicher Wirtschaftshof)があったと推測される。続くルートヴィヒ1世(敬虔王)の治世には26,5m x 12mの広間を擁する王宮(Konigspfalz)があった。特にルートヴィヒ2世(ドイツ王)にとってはお気に入りの滞在地で(833年10月から876年8月までに33回)、フランクフルトは、876年にプリュムのレギノに「東国王の主要居住地」(principalis sedes regni orientalis)と呼ばれ、ほとんど国王居城地的性格(Residenzcharakter)を持っていた。カロリング朝歴代の王はこの地で頻繁に宮廷会議(Hoftage)や帝国会議(Reichsversammlungen)を開催し、広大な御料林(Reichsforst)「ドライアイヒ」(Dreieich)で狩りを行った[19]。こうして、この「王宮は都市形成の過程における旧市区的核」となった[20]
神聖ローマ帝国時代

ザクセン朝(オットー朝)においてもフランクフルトの王室・帝室にとっての重要性は維持され、クリスマスの祝祭が頻繁に催されたが、ザーリアー朝にいたると、帝室にとってこの市の役割は後退した。ロタール3世時代は、行幸が一度もなかった。しかし、ホーエンシュタウフェン朝においては再び王・皇帝の滞在が頻繁になり、宮廷会議がこの地で開かれた[21]

1241年の帝国租税表(Reichssteuerverzeichnis)に挙げられた都市の中でフランクフルトは最高額250マルク/年の税を納付している(都市以外の租税納付単位を含め、租税全額7100マルク)[22]

中世、フランクフルト市政にとって決定的だったのは、都市君主としての王の無制限の支配権(Stadtherrschaft)であった。1200年ころの フリードリヒ2世によるライヒスフォークタイ(Reichsvogtei)撤廃の後、1184年/ 1185年以降記録にあるシュルトハイス(Schultheis)が王権の最高代理統治権者(der oberste konigliche Amtstrager)として市の行政と司法をリードした。それに当初任命されたのは帝国ミニステリアーレ(Reichsministerialitat)出身者であった。判決発見の役割(Urteilsfinder)は市民側の参審団(Schoffenkolleg)が担ったが、それから参事会(Rat)が発展していった。1311年には市長(Burgermeister)が置かれ、参事会と市長が市の行政を担い、シュルトハイスの機能を制限していった[23]

13世紀から14世紀にかけて、周辺領邦君主の圧迫に対抗して商業の安全を確保するために近隣諸都市と同盟を結んだ。すなわちヴェッテルアウ帝国都市同盟(der Bund wetterauischen Reichsstadte)とライン中流地域ラント平和組織(Mittelrheinische Landfriedenorganisation)においてフランクフルトは指導的役割を演じた[24]

1147年 ドイツ王コンラート3世はこの地の選挙で「息子ハインリヒを国王に当選させた」[25]。その後、1152年3月5日、「帝国の世俗諸侯と聖職者諸侯の全員が」フランクフルトに集まり、シュヴァーベン大公フリードリヒ(フリードリヒ2世バルバロッサ)を「満場一致でドイツ王に選んだ」[26]。以後ほとんどの国王選挙はこの地で行われ、国王選挙地としてのフランクフルトは1356年金印勅書において規定されたが、このことはこの地に帝国法上、傑出した地位を与えた[23]。国王選挙は神聖ローマ帝国終焉の1806年に至るまでの間ほとんど毎回この地で行われたが、戴冠式も1563年からフランクフルトで催された[27]1792年の最後の神聖ローマ皇帝フランツ2世の戴冠式とともに、当市の特別な地位も消滅した。なお、ゲーテはその自伝『詩と真実』第5章(Dichtung und Wahrheit, Erster Teil, Funftes Buch)において、1764年4月に挙行された皇帝フランツ1世と帝妃 マリア・テレジアの息子 ヨーゼフ2世のローマ王戴冠式の盛儀を生き生きと描写している[28]

フランクフルトは1074年Zollstatte(仮訳「関税地」)として記録されている。フランクフルトの商人の免税が記録されている最初の文書は、ヴォルムス 1184年と伝えている。1170年ころから貨幣が鋳造されている。


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