フランクフルト・アム・マイン
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ドイツを代表する世界都市の一つに数えられており[2]欧州中央銀行ドイツ連邦銀行フランクフルト証券取引所ドイツ銀行コメルツ銀行ドイツ復興金融公庫、DZ銀行(英語版)、ヘッセン=テューリンゲン州立銀行(英語版)(ヘラバ)の本社がある。 

工業・産業・交通の要衝でもある。メッセ・フランクフルトは、世界最大の見本市会場の一つである。フランクフルト空港は世界最大級のハブ空港であり、鉄道についてもヨーロッパ最大級のターミナル駅であるフランクフルト中央駅がある。また、道路においてもフランクフルト・ジャンクションはドイツで最も自動車交通量が多いジャンクションの1つである[3]。フランクフルトの DE-CIX は、データ転送量において世界最大のインターネット中継点である。
地名フランクフルトの伝説

ドームヒューゲルの入植地の名前は、794年に初めて文献に記録された際、Franconofurd,[4] または Francorum vadus[5]古高ドイツ語およびラテン語で記述されている。どちらもフランク人徒渉地を意味する。おそらく、現在のアルテ・ブリュッケのやや上流側の川底に岩があり浅瀬になっていたために、通常の水位の状態であれば、現在よりはかなり川幅があったと思われるマイン川を歩いて渡ることができた。この徒渉地は、ローマ時代になると戦略的意味はなかったが、マインツからゲルマニア領内を通る街道は、マイン川河口域の湿地を迂回してドームヒューゲルを通っていた。

ローマ人が撤退した後、260年頃にドームヒューゲルはアレマン人に占領された。530年頃フランク人がアレマン人に替わってマイン川下流域の覇権を掌握した。おそらく新しい領主は、この徒渉地を重要な交易路として利用した。このため、交易相手はこの徒渉地を「フランケンフルト」と呼んだ[6]

年代記作者のティートマール・フォン・メルゼブルク(ドイツ語版)は、1014年から1017年に、カール大帝によるこの街の創設に関する現在まで知られている伝説を記述している[7]。それは、ザクセン戦争と関連している。.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}「信頼できる人々から聞いたことを今から私が物語ろう。ピピン王の王子カール大帝の治世に、あなたがたの先祖と我々の祖先(ザクセン人)との間で戦争が起こった。この戦いでフランク人は我々の祖先によって打ち負かされた。彼らが不案内な徒渉地を通ってマイン川を渡らねばならなくなった時、彼らの前を一頭の雌シカが川を渡り、神の温情をもって渡るべき道を示した。彼らはシカに続いて川を渡り、陽気な気分で安全な岸にたどり着いた。これ以後、この村はフランクフルトと呼ばれるようになった。」—ティートマール・フォン・メルゼブルク、『年代記』VII, 75

実際には、カール大帝はザクセン族とマイン地域で戦ったことはない。また、勝利した王によって捕らえられたザクセン族の定住地であるとする誤ったフランクフルト=ザクセンハウゼンの名前の成立史についても、単なる伝説である。これらは、おそらく794年に北ドイツで蜂起したザクセン族鎮圧のための遠征直前に立ち寄った史実が、口承によって様々な話と混じり合った事に由来すると思われる。

フランクフルトの名前と創設に関する他の伝説は、現在ではあまり知られていない。それは特に近世初期にフランクフルトの重要性を神秘的に高めるために利用された話である。人文主義者ヨハンネス・トリテミウスは、15世紀にフランクフルトの同意語として「ヘレノポリス」という地名を用いた。この地名は、18世紀まで他の人文主義者によって時折使われていた。この地名の由来は明らかではない。ヘレノポリスは、プリアモスの息子でトロイアから逃走したヘレノスがこの地を居と定め創設した街であるという。別の著者は、コンスタンティン大帝の母ヘレナに由来するとも記述している。

トリテミウスの神話は、フランクフルトの名前の由来も明らかにしている。それによれば、紀元130年頃 Hogier 公 Francus が古いヘレノポリスの街を再興し、自らの名前にちなんで Frankenfurt と名付けたという[8]

元来の名前 Franconofurd は中世に Frankenfort または Frankinfort、近世に Franckfort および Franckfurth と変化した。そして遅くとも19世紀の初めには、Frankfurt という表記が確定した。

名前に添えられた「アム・マイン」は「マイン川沿いの?」を意味しており、同名の別都市との区別のため最も古くは14世紀から、しばしば付けられるようになった[注釈 1]。日常的には、オーデル川沿いのフランクフルトと混同する恐れがない限りは、「フランクフルト」と短縮される。また、Frankfurt/Main あるいは Frankfurt a. M. 表記方法もしばしば見られ、鉄道関係では Frankfurt (Main) という表記も残っている。さらに FfMなどの略号も用いられる。
地理フランクフルト市内の最高地点に立つベルガー・ヴァルテ
位置

フランクフルト・アム・マイン市は、南西ドイツのタウヌス山地南東麓マイン川下流の両岸に位置し、ドイツで最も重要な経済圏を形成している。市域の約1/3がフランクフルト緑地帯景観保護地域に指定されている。これにはドイツ最大の都市林であるフランクフルター・シュタットヴァルトが含まれる。市域は東西23.4km、南北23.3kmの広がりを持つ。

自然構造物で最も高い地点は、ゼックバッハ市区ベルガー・リュッケンのベルガー・ヴァルテ(直訳すると「山の監視所」)のある位置で、海抜 212.6 m である。一方最低地点は、ジンドリンゲン市区のマイン川の河原で、海抜 88 m である。本市は、バーゼルからライン=マイン地域にいたるオーバーライン地溝の北端にあたる。

現在の市域の地理上の重心、すなわち地理的中心点は、ボッケンハイム区のフランクフルト西駅付近で、歴史的市街地の外側にある[9]
地質

フランクフルトの市域は、大部分がウンターマインエーベネ(マイン川下流域盆地)西部に属す。市の東部はハーナウ=ゼーリゲンシュタット盆地、最北部はヴェッテラウである[10]。地質学的には、本市の市域内には鮮新世後期から更新世に形成されたマイン川ニッダ川の4つの段丘が見られる。最も高い段丘は、タウヌス山地の岩石で構成されており、市内ではベルガー・リュッケンでのみ見られる。高さ 170 m から 120 m の上の段丘には、市北部から北東部の市区が存在している。ここから北西はニッダ川へ、南はボルンハイマー・ハングやレーダーベルク付近を急斜面で下る。ザクセンハウゼン南のミュールベルクやザクセンホイザー・ベルクもこの段丘にあたる。中央の段丘は 100 m から 115 m の高さにある。これは、市域内ではたとえばケルスターバッハ川の川岸や、ヘーヒスト旧市街の断崖状の川岸がこれにあたる。高さ 95 m から 90 m の下の段丘は、完新世になって形成された。これは、マイン川の両岸に沿っている。ここには、街の歴史の出発点となったドームヒューゲル(聖堂の丘)やカルメリッターヒューゲル(カルメル会の丘)がある。ボッケンハイム区(バザルト通り)やシュタットヴァルトといった市内の限られた場所に、中新世のフォーゲルスベルク玄武岩でできた下の地層を見ることができる。この層の厚さは 14 m 程度である。
気候

最も古い気温の測定値は1695年12月のもので、アヒレス・アウグストゥス・フォン・レルスナーの年代記に記録されている。1826年以後は、異なる測候所での継続的な測定値が存在している[11]。現在フランクフルトには、ドイツ気象庁の測候所が多くある。これには、フランクフルト空港の測候所も含まれており、その測定記録は1949年にまで遡る。

フランクフルトおよびライン=マイン地域は、ドイツで最も温暖な気候に属するオーバーライン地溝の北端に位置する。

このためフランクフルトの気候は総じて穏やか。11月から1月までの時期には平均1から2時間しか晴天にならない。冬の時期における1日の最高気温の平均値は、1月で約5.1 ℃、夜間の最低気温は、平均-0.6 ℃(1991年から2020年の統計値)。雪は1月に平均7日間。積雪が10 cmを超えることは滅多になく、ほとんどはすぐに消える。しかし市の北西部のタウヌス山地だけはしばしば雪が積もる。

夏の最高気温は 26 ℃?27℃(30 ℃を超える日は平均年間10日である)と暖かい。にわか雨や突然の豪雨でやや変わりやすいものの、毎日7時間から8時間の日照が得られる時期。


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