フランクフルト・アム・マイン
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^ 一部 インネンシュタットIV
^ 一部 ミッテ=ヴェスト
^ 一部 ジュート
^ 一部 ノルト=ヴェスト

人口人口推移グラフ

国別の海外出身者の人口[15]
出身国人口 (2022)
 トルコ25,300
 クロアチア16,770
 イタリア15,120
 ポーランド12,180
 ルーマニア10,450
 ウクライナ10,260
 セルビア9,405
 ブルガリア8,510
 インド7,620
 モロッコ7,370
 スペイン7,140
 ギリシャ6,590
 ボスニア・ヘルツェゴビナ6,350
 アフガニスタン5,130
 フランス4,720
 中国4,640
 アルジェリア4,090
 ポルトガル4,000
 日本3,670
 エリトリア3,380

人口推移

フランクフルトの人口推移については、19世紀になるまでは不正確な推定値に基づくしかない。1810年頃から国勢調査や公式な統計調査がなされるようになった。中世のフランクフルトは人口約1万人の中規模都市であった。17世紀に2万人、18世紀に中頃に3万人、1810年頃に4万人を超えた。自由都市フランクフルトが終焉した1866年までに9万人を超えたが、このうち約78,000人が堡塁施設の内側に住んでいた。現在そこに住んでいるのは約7,000人である。

1875年、フランクフルトの人口は10万人を超えた。1880年頃にはドイツ10大都市の一つとなった。1910年の人口は414,576人でドイツで9番目、プロイセンで4番目に大きな都市となった。第二次世界大戦前には553,464人まで増加した。

第二次世界大戦中には、4,800人以上の市民と12,700人以上の兵士が命を落とした。また、約3万人のフランクフルト在住ユダヤ人のうち約12,000人がホロコーストによって殺害された。1945年末のこの街の人口は約358,000人であり、戦争によって住民の約3分の1が亡くなった。

その後人口は、1951年に戦前の1939年の状態へ復し、1963年に史上最大の691,257人となった。周辺への人口移動によって1986年までに592,411人へと減少したが、その後再び増加して2010年12月31日現在の人口は、1986年から14.7%増の679,664人となった。2005年からの5年間は平均で1年あたり約7,000人の増加が見られた。こうした折り返し傾向は、独居世帯の不釣り合いな増加や住宅地の増加と関連している[16]

2009年12月31日の調査に基づき、統計および選挙住民局が2010年12月に算定した「フランクフルト2030年人口予測」の計算では、フランクフルトの人口は2020年までに約 725,000人に増加し、その後2030年までにわずかに減少して723,000人となると予測されている。これは副人口(ドイツでは主な住所と別に副住所を登録できる)を併せた全人口に対する推定値である。市の調査によれば、2012年6月30日現在の人口は700,256人で、初めて70万人を超えたことになる[17]

現在フランクフルトの人口はおよそ77万人でドイツの5番目に大きい都市となっている。国際的な都市であり様々な国からの移住者が多い。フランクフルト空港の影響で戦後から多くのの会社や銀行がフランクフルトに来て、西ドイツ時代の経済を代表する都市であった。フランクフルトにはトルコ人東ヨーロッパ系(主にクロアチア人ポーランド人セルビア人)や北アフリカ系(主にモロッコ人アルジェリア人)が多い。[18] フランクフルトにはおよそ3,700人の日本人が住み、ドイツではデュッセルドルフベルリンに続いて3番目に多く日本人学校もあり、日本の会社や銀行の数も多い。
隣接自治体

西:
マイン=タウヌス郡ハッタースハイム・アム・マインクリフテルホーフハイム・アム・タウヌスケルクハイム (タウヌス)リーダーバッハ・アム・タウヌスズルツバッハ (タウヌス)シュヴァルバッハ・アム・タウヌスエシュボルン

北西:ホーホタウヌス郡シュタインバッハ (タウヌス)オーバーウルゼル (タウヌス)バート・ホムブルク・フォア・デア・ヘーエ

北:ヴェッテラウ郡(カルベン、バート・フィルベル


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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