フランキー堺
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その技芸は一番ですよ」とコメントし[8]、初対面の小林信彦にも「ピエール・エテックスの喜劇『女はコワイです』のギャグを数えたら六十ありましたが、僕が使えるのは五十四ですかね」と切り出す[9]など今も輝かしい才気が語り伝えられているが、堺もこのコメントあたりからスラップスティック・コメディアンから人情喜劇役者への転身が始まる。特に東宝から松竹へ移った辺りからは、芸名のようなフランキーな持ち味は控えられるようになった。

BC級戦犯の悲劇を描いた『私は貝になりたい』、人情派検事の奮闘を描いた『赤かぶ検事奮戦記』などの社会派ドラマ、『モスラ』や『世界大戦争』などの特撮まで幅広く活躍した[3][4]。『モスラ』の監督を務めた本多猪四郎は堺の演技について、熱心に役に取り組んでおり非常にやりやすかったと述べている[10]

朝日放送クイズ番組霊感ヤマカン第六感』では野末陳平の後任として2代目司会者を務め、軽妙かつ温厚な司会ぶりで視聴者に親しまれた。

多額の私財を投じて東洲斎写楽の研究を行っていたことでも有名である。1995年篠田正浩監督映画『写楽』では、企画総指揮・脚色を務め、版元蔦屋重三郎役を自ら演じた。これは、『幕末太陽傳』で堺を主演に起用した川島雄三監督が「次回作はフランキー堺主演で写楽を撮る」と告げたまま急死してしまったため、その遺志を継いで30年後に完成させたものだった。また、同じく写楽の映画を撮ることを念願としていた巨匠・内田吐夢とも意気投合したが、内田も夢を果たせずに没した[6]

落語家8代目桂文楽に入門しており、噺家として桂文昇の名を持っていた。

1967年から大阪芸術大学で演劇論を講じ、1974年より大阪芸術大学舞台芸術学科の教授に就任し学科長も務めた[6]1994年紫綬褒章を受章。

1996年6月7日未明に大阪市のホテルで吐血して緊急入院、6月10日午後11時2分、肝不全のため東京都港区済生会中央病院で死去した。67歳没[2]

『モスラ』で共演した小泉博は堺の死について、「ショックでした」と語っている[11]
親族

堺の長男は和久峻三の娘と、次男は福澤諭吉の曽孫の娘とそれぞれ結婚している[12]
受賞

ブルーリボン賞主演男優賞〔昭和32年〕「幕末太陽傳」「倖せは僕等のねがい」

キネマ旬報賞主演男優賞〔昭和32年〕「幕末太陽傳

芸術祭文部大臣賞〔昭和33年〕「私は貝になりたい」

芸術祭文部大臣賞(映画)〔昭和38年〕「天と結婚」

NHK映画賞主演男優賞「末は博士か大臣か」

芸術祭企画賞(ドラマ)〔昭和39年〕「もぐらの唄」

モンテカルロ国際テレビ祭シルバー・ニンフ賞(第30回)〔平成2年〕「山頭火」

紫綬褒章〔平成6年〕

藤本賞(平6年度)〔平成7年〕

エランドール賞(特別賞,平7年度)〔平成8年〕「写楽」

日本アカデミー賞(特別賞企画賞,第19回)〔平成8年〕「写楽」

日本アカデミー賞会長特別賞(第20回,平8年度)〔平成9年〕

毎日映画コンクール特別賞(第51回,平8年度)〔平成9年〕

出演作品
映画『地下から来た男』(1956年)幕末太陽傳』(1957年)私は貝になりたい』(1959年)

名探偵アジャパー氏(1953年、新東宝)- 与田輝夫とシックス・レモンズの一員

青春ジャズ娘(1953年、新東宝)- ドラムの青木

愛のお荷物(1955年/日活)[7]

初恋カナリア娘(1955年、日活

緑はるかに(1955年)- ピエロ

丹下左膳 第一部 乾雲の巻、第二部 坤竜の巻、第三部 昇竜の巻(1956年、日活)- 鼓の与吉

牛乳屋フランキー(1956年、日活)[7]

ドラムと恋と夢(1956年、日活)- フラ公

ジャズ・オン・パレード 1956年 裏町のお転婆娘 (1956年)


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