フラウィウス・クラウディウス・ユリアヌス
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ユリアヌスに類似した哲学的見解を持っていた執政官はローマの神々を唯一神の現れだと主張していたとされる[41]
改革への反発と対立

急激に進められた体制の変革は様々な抵抗に遭い、思うような効果は上げられなかった。ペルシア遠征前に滞在したアンティオキアでの、市民の反応が象徴的である。ユリアヌスは362年7月にこの町に入城していたが、この年は旱魃に見舞われていた[42]。これへの対応として周辺地域から食糧を供給したが、市内の流通の監督を怠ったために不正が広がり、これを契機に市民との関係が悪化した[43]。『ミソポゴン (Misopogon) 』が書かれたのはこのときである。

ユリアヌスとアンティオキア市民の対立には、皇帝の強すぎる禁欲主義に対する市民の反発など、これ以外にも様々な理由がある。だが、その中のひとつにユリアヌスの描く皇帝像に対する反発は確かにあった[44]。これは、コンスタンティウス2世のような皇帝のあり方を望ましいと感じている人々がいた、ということでもある。
ペルシア遠征(363年)ユリアヌスのペルシア遠征経路

サーサーン朝のシャープール2世は、ディオクレティアヌス以来の均衡状態をおよそ40年ぶりに破り、かつてのアケメネス朝の領土の返還を迫ってローマ帝国と戦端を開いた。ローマ側はこれを防いでいたが、361年末にコンスタンティウスは東方国境から撤退してしまった。したがって、ユリアヌスが皇帝となったとき、コンスタンティウスの治世に持ち上がった懸案は解決しておらず、ローマの東方国境は再びサーサーン朝の攻勢に晒されていた。

363年3月5日、ユリアヌスは8万から9万の兵を率いてアンティオキアを発った[45]。この遠征には兵士だけでなく、コンスタンティヌスの時代にローマ帝国に亡命していた、シャープールの弟ホルミズド (Hormizd) を伴っていた。まずはアルメニア王アルサケスに食糧と援軍を提供するように指示を出し、ヒエラポリス(現マンビジ)にて補給態勢の確認を行ったのち、ユーフラテス川を渡ってメソポタミアに入った[46]。メソポタミアのカルラエ(現ハッラーン)では、プロコピウス (Procopius) とセバスティアヌスに3万の兵を預け、アルメニアの援軍と合流してメディアを征服するように命じた[47]

ユリアヌス率いる本隊はユーフラテス川沿いのカリニクム(現ラッカ)に向かい、遠征のために編成された艦隊と合流した。艦隊は約千艘の船からなり、食糧・武器・攻城兵器が積まれていた。中には浮橋用の平底舟もあった。カリニクムを発った後はキルケシウム (Circesium) (現ブセイラ)にてハブール川を渡り、そのままユーフラテス川を下った。アンミアヌスの記録には、途中経由(陥落・占領・焼き討ち)した都市として、ドゥラ・エウロポス、アナタ (Anatha) 、ティルタ、アカイアカラ、バラクスマルカ、ディアキラ、オゾガルダナ、マケプラクタの名前が出ている[48]。このうちオゾガルダナには、トラヤヌスパルティア遠征時に建てられた裁判所の遺構が残されていた。

その後はピリサボラ (Anbar) を陥落させ、運河ナハルマルカに到達した[49]。トラヤヌスが船を運んだ経路が残っていたため、ユリアヌスはこれを開き、ユーフラテス川からティグリス川へと船を移した[注釈 10]。こうしてユリアヌスはクテシフォンの間近に迫り、その城外での戦闘にも勝利したが、好機を逸したために占領に失敗した[50]。ティグリス川から南下してくるはずの援軍は到着せず、シャープールの軍も接近しつつあり、情勢は芳しくなかった。クテシフォン近郊に留まることを断念したユリアヌスは、艦隊を焼き、撤退に移った[51]。プロコピウスとセバスティアヌスの部隊を目指してティグリス沿いに北上したが、6月26日、敵襲に対して指揮をとっている際に投槍を受け、陣中で没した[52]。死に際して「ガリラヤ人よ、汝は勝てり」との言葉を遺したという伝承がある。4世紀末のローマ帝国東方の領域
384年のテオドシウスによる分割後)

撤退中の陣中で選ばれた新たな皇帝ヨウィアヌスは、退路の安全を確保するため、以下のように大幅に譲歩した条件でシャープールと講和した[53]

サーサーン朝は、アルザネネ (Arzanene) 、モクソエネ (Moxoene) 、ザブディケネ、レヒメネ、コルドゥエネ (Corduene) の5つのトランスティグリタニア地方を15の砦とともに得る

サーサーン朝は、ニシビス (Nisibis) 、シンガラ (Singara) 、カストラ・マウロルムを得る

ローマ帝国は、ニシビスとシンガラから、軍と住民を退去させてよい

ローマ帝国は、今後一切、アルサケスを助けサーサーン朝に対抗しない

これにより、サーサーン朝側の優勢は決定的となり、さらにローマ帝国は北方の国境にも問題を抱えていたため、以後、両国間に大規模な武力衝突はなくなった。4世紀末にテオドシウス1世が一時攻勢に出たが、東方国境以外に不安要素を抱えていたため、アルメニアを東西分割してその西側の一部をローマ側のものとするのが限界であった[54]。ユリアヌスのような大規模な遠征は、6世紀半ばのユスティニアヌス1世の征服活動を待つことになる。
年譜

「ユリアヌス」が主語の場合、特に明示しない。

331/332年 - コンスタンティノポリスに生まれる

337年

5月22日 - コンスタンティヌス1世(大帝)、死去

夏(9月9日以前) - 一家暗殺される。ビテュニアの祖母に引き取られる


338/339年 - マルドニオス、ユリアヌスの家庭教師となる

342年頃 - ユリアヌスとガッルス、マケッルムに勾留される

348年 - ユリアヌスとガッルス、コンスタンティノポリスに召還される

同年末/349年 - ニコメディアに留学

351年5月 - ガッルス、副帝に即位

354年 - ガッルス、処刑される。メディオラヌムの宮廷に召還、拘束される

355年

夏 - アテナイに遊学

11月6日 - 副帝に即位

12月1日 - ガリアに派遣される


356年 - コロニア・アグリッピナを回復

357年8月 - アルゲントラトゥムの戦い。ゲルマン人に大勝

360年2月 - ルテティアで皇帝(正帝)に推戴される

361年

7月 - コンスタンティウス2世との対決に向け東方に進軍

11月3日 - コンスタンティウス2世、死去

12月11日 - コンスタンティノポリスに入城


362年7月18日 - アンティオキアに入城

363年

1月 - 『ミソポゴン』を発表

3月5日 - ペルシアへ出征

6月26日 - 撤退中に負傷、死去


主な著作

『ミソポゴン』(髭嫌い) - ユリアヌスの髭を嘲ったアンティオキア住民への反論。ギリシア語で書かれている

『皇帝饗宴』(皇帝伝) - 過去のローマ皇帝の風刺

神々の饗宴に歴代のローマ皇帝が次々と現れる。その中で最も優れた者を選ぶことになり、
ユリウス・カエサルオクタウィアヌストラヤヌスマルクス・アウレリウス、(悪例としての)コンスタンティヌス1世に加えて、アレクサンドロス3世も集まる。各自の演説とヘルメースとの問答の結果、神々の投票でマルクス・アウレリウスが最も優れている者と決まった[55]


『ガリラヤ人どもを駁す』(ガリラヤ人論駁) - キリスト教への批判

『王なる太陽への賛歌』 - 「異教」神学の体系化を図った著作

脚注[脚注の使い方]
注釈^ 「異教」という言葉は、あくまでもキリスト教の側から見たときの呼称であるため、今日では「多神教」などと表記する傾向が強くなっている。


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