その後はピリサボラ (Anbar) を陥落させ、運河ナハルマルカに到達した[49]。トラヤヌスが船を運んだ経路が残っていたため、ユリアヌスはこれを開き、ユーフラテス川からティグリス川へと船を移した[注釈 10]。こうしてユリアヌスはクテシフォンの間近に迫り、その城外での戦闘にも勝利したが、好機を逸したために占領に失敗した[50]。ティグリス川から南下してくるはずの援軍は到着せず、シャープールの軍も接近しつつあり、情勢は芳しくなかった。クテシフォン近郊に留まることを断念したユリアヌスは、艦隊を焼き、撤退に移った[51]。プロコピウスとセバスティアヌスの部隊を目指してティグリス沿いに北上したが、6月26日、敵襲に対して指揮をとっている際に投槍を受け、陣中で没した[52]。死に際して「ガリラヤ人よ、汝は勝てり」との言葉を遺したという伝承がある。4世紀末のローマ帝国東方の領域
(384年のテオドシウスによる分割後)
撤退中の陣中で選ばれた新たな皇帝ヨウィアヌスは、退路の安全を確保するため、以下のように大幅に譲歩した条件でシャープールと講和した[53]。
サーサーン朝は、アルザネネ (Arzanene) 、モクソエネ (Moxoene) 、ザブディケネ、レヒメネ、コルドゥエネ (Corduene) の5つのトランスティグリタニア地方を15の砦とともに得る
サーサーン朝は、ニシビス (Nisibis) 、シンガラ (Singara) 、カストラ・マウロルムを得る
ローマ帝国は、ニシビスとシンガラから、軍と住民を退去させてよい
ローマ帝国は、今後一切、アルサケスを助けサーサーン朝に対抗しない
これにより、サーサーン朝側の優勢は決定的となり、さらにローマ帝国は北方の国境にも問題を抱えていたため、以後、両国間に大規模な武力衝突はなくなった。4世紀末にテオドシウス1世が一時攻勢に出たが、東方国境以外に不安要素を抱えていたため、アルメニアを東西分割してその西側の一部をローマ側のものとするのが限界であった[54]。ユリアヌスのような大規模な遠征は、6世紀半ばのユスティニアヌス1世の征服活動を待つことになる。 「ユリアヌス」が主語の場合、特に明示しない。
年譜
331/332年 - コンスタンティノポリスに生まれる
337年
5月22日 - コンスタンティヌス1世(大帝)、死去
夏(9月9日以前) - 一家暗殺される。ビテュニアの祖母に引き取られる
338/339年 - マルドニオス、ユリアヌスの家庭教師となる
342年頃 - ユリアヌスとガッルス、マケッルムに勾留される
348年 - ユリアヌスとガッルス、コンスタンティノポリスに召還される
同年末/349年 - ニコメディアに留学
351年5月 - ガッルス、副帝に即位
354年 - ガッルス、処刑される。メディオラヌムの宮廷に召還、拘束される
355年
夏 - アテナイに遊学
11月6日 - 副帝に即位
12月1日 - ガリアに派遣される
356年 - コロニア・アグリッピナを回復
357年8月 - アルゲントラトゥムの戦い。ゲルマン人に大勝
360年2月 - ルテティアで皇帝(正帝)に推戴される
361年
7月 - コンスタンティウス2世との対決に向け東方に進軍
11月3日 - コンスタンティウス2世、死去
12月11日 - コンスタンティノポリスに入城
362年7月18日 - アンティオキアに入城
363年
1月 - 『ミソポゴン』を発表
3月5日 - ペルシアへ出征
6月26日 - 撤退中に負傷、死去
主な著作
『ミソポゴン』(髭嫌い) - ユリアヌスの髭を嘲ったアンティオキア住民への反論。ギリシア語で書かれている
『皇帝饗宴』(皇帝伝) - 過去のローマ皇帝の風刺
神々の饗宴に歴代のローマ皇帝が次々と現れる。その中で最も優れた者を選ぶことになり、ユリウス・カエサル、オクタウィアヌス、トラヤヌス、マルクス・アウレリウス、(悪例としての)コンスタンティヌス1世に加えて、アレクサンドロス3世も集まる。各自の演説とヘルメースとの問答の結果、神々の投票でマルクス・アウレリウスが最も優れている者と決まった[55]。
『ガリラヤ人どもを駁す』(ガリラヤ人論駁) - キリスト教への批判
『王なる太陽への賛歌』 - 「異教」神学の体系化を図った著作
脚注[脚注の使い方]
注釈^ 「異教」という言葉は、あくまでもキリスト教の側から見たときの呼称であるため、今日では「多神教」などと表記する傾向が強くなっている。
^ 331年が有力とされる。月日については不明。バワーソック、44頁。
^ ガッルスは当時、病で間もなく死ぬと思われていた。バウダー、104頁。
^ ユリアヌスに仕えた歴史家アンミアヌス・マルケリヌスは、ニコメディアで主教(司教)エウセビオス(ニコメディアのエウセビオス
^ リバニオスの話を直接聞くことはコンスタンティウスに禁じられていたため、代理の者にノートを取らせていた。Tougher, p.16.
^ このマクシムスの導きにより、ユリアヌスはミトラ教の宗団に秘密裏に入会した[2]。
^ ガッルスの統治が評価しがたいものであったことはユリアヌスも認めており、処刑はともかく副帝解任には正当性があった。バワーソック、62頁。
^ ユリアヌスの異母兄ガッルスもコンスタンティウスの妹の一人で従姉にあたるコンスタンティナ(コンスタンティヌス1世とその後妻ファウスタの長女。マクシミアヌスの孫娘の一人。マクセンティウスの姪。ヘレナの同母姉)と結婚し、一人娘アナスタシアを儲けている。アナスタシアの子孫にアナスタシウス1世とその弟妹がおり、弟妹の血筋が後世に存続している。
^ ユリアヌスを攻撃するように記された書簡を、コンスタンティウスから受け取っていたとされる。バワーソック、97-98頁。
^ バワーソックは、水がティグリス川に流れるように造られた運河としているが、Bennettは、トラヤヌスは陸上に装置を設けて船を運んだとしている。バワーソック、182頁。Bennett, p.199.
出典^ Julian Roman emperor Encyclopadia Britannica
^ F・キュモン『ミトラの密議』ちくま学芸文庫、2018年、177頁。
^ Tougher, p.18.