フラウィウス・クラウディウス・ユリアヌス
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ユリアヌスとその兄コンスタンティウス・ガッルスは幼少のため見逃された[注釈 3]。ユリアヌスは(おそらくガッルスも共に)ビテュニアに住まう母方の祖母のもとに預けられ[注釈 4]、事実上軟禁された状態で養育された。軟禁生活では、キリスト教会の『聖書』朗読者となる一方で、かつてバシリナの家庭教師であった宦官マルドニオスによって、ギリシア・ローマの古典や神話も教えられていた。

おそらく342年になると、ユリアヌスとガッルスは皇帝領のマケッルム (Macellum) へ移された。マケッルムでは、その名が意味する「囲い地」のとおり外部との接触は極端に制限され、ユリアヌスは兄とともに奴隷の仕事を手伝いながら6年間を過ごした。ただし、読書に関しては自由を与えられていたため、カッパドキアのゲオルギウス (Georgius) の蔵書を用いて勉学に励んでいた。この中には異教の古典作品も多数含まれており、ゲオルギウスの死後、ユリアヌスはその保護を依頼している。

348年、2人はコンスタンティノポリスに召還され、6年間の追放が終わった。ガッルスが宮廷に留め置かれる一方、ユリアヌスは勉学に関しての自由が認められた。そこで、コンスタンティノポリスで修辞学を学んだのち、ニコメディアへ留学した。この地で哲学者リバニオス (Libanius) の講義を、間接的にではあるが受けることができ[注釈 5]、ユリアヌスは新プラトン主義の影響を強く受けるようになる。

351年、ガッルスは東方のサーサーン朝の脅威に対するため、副帝としてコンスタンティウス2世に登用された。その一方で、ユリアヌスは変わらず勉学に勤しみ、ペルガモンにいたアエデシオス (Aedesius) や、エペソスのマクシムス (Maximus) [注釈 6]など、小アジアの新プラトン主義の大家のもとを訪れている。この経験から、キリスト教の優越性を声高に叫ぶ信徒や伯父たちのキリスト教庇護に疑問を感ずるようになり、異教への回心が決定的となった。ユリアヌス本人も、自身の回心は351年に始まったとしている。副帝即位直前の夏には、アエデシオスの弟子プリスクスを訪ねてアテナイに赴いている。

354年、副帝であったガッルスがコンスタンティウス2世に処刑された[注釈 7]。さらに皇帝はユリアヌスに反抗の疑いをかけ、メディオラヌム(現ミラノ)の宮廷に呼び出した。ユリアヌスはそのままコンスタンティウスの監視下に置かれたが、皇妃エウセビア (Eusebia) が唯一の擁護者として皇帝に働きかけたため、約半年後に疑いが晴れ、解放された。

メディオラヌムを離れたのちは、ビテュニアの邸宅に寄り、そこからすぐにギリシアへと発った。アテナイにて「異教徒」たちに交じりながら、キリスト教徒の修辞学者プロハイレシオスから手ほどきを受けていた。だが、間もなくコンスタンティウスに召還され、再びメディオラヌムの宮廷に向かうことになる[3]

355年後半、コンスタンティウスは東方のペルシアだけでなくガリアでの問題にも直面していた[4]。このガリア側の問題を解決するため、ユリアヌスにはガッルスに代わる皇帝権力のパートナーとしての役割が求められるようになった。こうした背景から355年11月5日、メディオラヌムにてユリアヌスは副帝に任じられる。この登用は、以前に監視から解放されたとき同様、エウセビアの進言によるところが大きかった[5]。副帝就任と同時に結婚した。相手はコンスタンティウスの妹ヘレナで、ユリアヌスから見れば従姉にあたる女性だった[注釈 8]
ガリア赴任(355年 - 360年)ガリアの都市

355年末、ユリアヌスはコンスタンティウスとともにガリアに向かっていた。配下に置かれる予定の軍は、すでにガリアにて待機していた。この道中、フランク族によってコロニア・アグリッピナ(現ケルン)が陥落したとの報告を受ける[6]。ここからユリアヌス自身の指揮による戦闘が始まる。

翌年6月、ウィエンナ(現ヴィエンヌ)での越冬を終えたユリアヌスはまず、攻撃に晒されていたアウグストドゥヌム(現オータン)を救援し、そこからアウテシオドゥルム(現オセール)、アウグストボナ(現トロワ)で敵を破りつつ、ドゥロコルトルム(現ランス)まで北上し、その地の駐屯軍と合流した[7]。戦力を整えたのちは東進し、ディウォドゥルム(現メス)を経由して、ライン川中流の西岸まで進出した。

これと平行してコンスタンティウスはライン川上流に進軍し、南北からの挟撃が行われた。まもなく、ライン川上流をアラマンニ族から奪回する目的は達成された。アラマンニ族との戦いをコンスタンティウスに引き継いだユリアヌスは北上し、コロニア・アグリッピナをフランク族の手から取り戻した[8]

コンスタンティウスは357年にはガリアを離れたが、ユリアヌスの成功は続いた。アルゲントラトゥムの戦いにて、3倍近いアラマンニ族を相手に勝利を収め[9]、その後はライン川を渡ってアラマンニ族の土地に攻撃を加えた。358年には下流域にも断固とした軍事行動をとった。さらに上流域でも別働隊がライン川を越えて征服したため、ローマ帝国の支配領域を、リメス・ゲルマニクスとライン・ドナウ両大河の源流の扇形の区域(アグリ・デクマテス、 (Agri Decumates) )にまで戻すことに成功した[10]。こうしてガリアの安定は取り戻された。それを示すように、359年になるとユリアヌスの軍事行動も少なくなる。
正帝への登極(360年 - 361年)コンスタンティウス2世の肖像が刻まれたソリドゥス金貨

360年初頭、ユリアヌスの平穏は一変する。コンスタンティウスが、ガリアから東方国境に援軍を送るように命じたからである。要求された人員は、ユリアヌスが指揮する全軍の半数近くに及んだ[11]。この指示を出すようコンスタンティウスに促したのが宮廷内の反ユリアヌス派であった可能性はあるが、当時の情勢を鑑みれば、安定した西方から緊張の高まっている東方へ戦力を移すというのは自然な流れでもあった。359年に北メソポタミアの要衝アミダ(現ディヤルバクル)を破壊するなど、ペルシア軍が攻勢に出ていたためである[12]

しかしユリアヌス側からすれば、この命令は苦渋の決断を迫られるものだった。対象となる兵士の多くがガリア出身で、故郷を離れることを望んではおらず、ユリアヌスも彼らにアルプス山脈を越えることはないと以前に宣言していた[13]からである。結局、コンスタンティウスの命令どおり援軍を送るべく、兵を一旦ルテティア(現パリ)に集結させた。だが、彼らが派遣されることはなかった。兵士たちはユリアヌスを囲み、歓呼をもって皇帝(正帝)に推戴したのであった。

ペルシアとの戦いに注力せざるを得なかったコンスタンティウスは、警告を与えるのみで、ただちにはユリアヌスを反逆者として処断しようとはしなかった。ユリアヌスのほうも、コンスタンティウスに対する書簡では「副帝」を自称していた。しかし、ユリアヌスのガリア滞在5周年を記念した祝祭に合わせて当地で発行された貨幣には、両者はどちらも皇帝と刻まれており、実際にはユリアヌスは皇帝(正帝)として振る舞っていた[14]

アラマンニ族の王[注釈 9]を捕らえ、ガリアでの軍事行動に区切りをつけたユリアヌスは、信頼するサッルスティウス (Sallustius) にガリアを任せ、361年夏、コンスタンティウスとの対決に向け、進軍を開始した[15]


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