フラウィウス・クラウディウス・ユリアヌス
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宮廷の人員の多くはたしかにキリスト教徒であったが、ユリアヌスはその数を削減するのみで「異教徒」と入れ替えることはしなかったからである[25]

宮廷・官僚組織の規模を縮小する一方で、元老院の権威を復興させようという努力もした[26]。宮廷の外においては、都市の再編にも着手した。副帝即位以前に様々な都市に遊学した経験から、各都市の財政負担を減らし、参事会の持つ権限を強化しようと考えた。ユリアヌスにとっての都市(特に帝国東半の)とは、ギリシア文化の伝統を継承する存在であり、ヘレニズムとの調和が必要だと信じていた[27]

つまりユリアヌスの改革の目的は、かつての伝統に回帰することであった。「異教」が中心となる世界を目指していたのである[28]。そのために、市民の皇帝というイメージを再構築しようと試みた。ガリア時代でもそうであったように、ユリアヌスの描く皇帝像はシンプルなものであり、威張らず、豪奢にせず、市民と身近な存在であった。ユリアヌスの心の内にあったモデルは、『ミソポゴン』や『皇帝饗宴』の記述から、マルクス・アウレリウス・アントニヌスだったとされている[29]。これについては、リバニオスも同様の説明をしている[30]
宗教面の改革教派間の議論を見守るユリアヌス
(エドワード・アーミテージ画)

宗教面では、キリスト教への優遇政策を廃止している。ユリアヌスは「異端」とされた者たちに恩赦を与え、キリスト教内部の対立を喚起した[31]。彼は弾圧などの暴力的手段に訴えることなく、巧妙に宗教界の抗争を誘導した[32]。異教祭儀の整備を進めたのも、ユダヤ教エルサレム神殿の再建許可を出したのもそのためであった[33]。これらの行動により、永くキリスト教徒からは「背教者 (Apostata)」の蔑称で呼ばれることになる。

その意図は教育行政に対してもよく現われている。362年6月に布告した勅令で、教師が自らの信じていないものを教えることを禁じた[34]。これはキリスト教徒が教師となること自体は禁じていなかったが、実質的にキリスト教徒は異教のものである古典文学を教授することができなくなった[35]。こうしてユリアヌスは、ギリシアの伝統ある文化・文明の「異教徒」による独占状態を作り出した。次世代の知識人層を「異教徒」で埋め尽くし、そこからのキリスト教徒の排除を図ったのである[36]。ユリアヌスは表面的には宗教的な差別は行わなかったが、その内心では明らかにキリスト教勢力を打倒しようとしていた[37]

一説によれば、彼が復興を目指した「異教」は新プラトン主義の影響を受けたものであり、帝政以前からの伝統であるローマの国家宗教ではなかったという。論者が言うには、ユリアヌスの考えるギリシア的宗教とは、ギリシア神話やローマ神話に代表されるような伝統的多神教ではなく、太陽神[38]とその下降形態である神々からなる単一神教 (henotheism) であった[39][40]。いずれにせよ、ユリアヌスはギリシアやオリエントの伝統的な宗教に対しても寛容であった。

ユリアヌスはキュベレー信仰が多神教と受け止められないように細心の注意を払い、また友人で側近でもあった新プラトン主義者サルティウス・セクンドゥスに神々と宇宙について一神教の教義として案内書にまとめるよう指示している[40]。ユリアヌスに類似した哲学的見解を持っていた執政官はローマの神々を唯一神の現れだと主張していたとされる[41]
改革への反発と対立

急激に進められた体制の変革は様々な抵抗に遭い、思うような効果は上げられなかった。ペルシア遠征前に滞在したアンティオキアでの、市民の反応が象徴的である。ユリアヌスは362年7月にこの町に入城していたが、この年は旱魃に見舞われていた[42]。これへの対応として周辺地域から食糧を供給したが、市内の流通の監督を怠ったために不正が広がり、これを契機に市民との関係が悪化した[43]。『ミソポゴン (Misopogon) 』が書かれたのはこのときである。

ユリアヌスとアンティオキア市民の対立には、皇帝の強すぎる禁欲主義に対する市民の反発など、これ以外にも様々な理由がある。だが、その中のひとつにユリアヌスの描く皇帝像に対する反発は確かにあった[44]。これは、コンスタンティウス2世のような皇帝のあり方を望ましいと感じている人々がいた、ということでもある。
ペルシア遠征(363年)ユリアヌスのペルシア遠征経路

サーサーン朝のシャープール2世は、ディオクレティアヌス以来の均衡状態をおよそ40年ぶりに破り、かつてのアケメネス朝の領土の返還を迫ってローマ帝国と戦端を開いた。ローマ側はこれを防いでいたが、361年末にコンスタンティウスは東方国境から撤退してしまった。したがって、ユリアヌスが皇帝となったとき、コンスタンティウスの治世に持ち上がった懸案は解決しておらず、ローマの東方国境は再びサーサーン朝の攻勢に晒されていた。

363年3月5日、ユリアヌスは8万から9万の兵を率いてアンティオキアを発った[45]。この遠征には兵士だけでなく、コンスタンティヌスの時代にローマ帝国に亡命していた、シャープールの弟ホルミズド (Hormizd) を伴っていた。まずはアルメニア王アルサケスに食糧と援軍を提供するように指示を出し、ヒエラポリス(現マンビジ)にて補給態勢の確認を行ったのち、ユーフラテス川を渡ってメソポタミアに入った[46]。メソポタミアのカルラエ(現ハッラーン)では、プロコピウス (Procopius) とセバスティアヌスに3万の兵を預け、アルメニアの援軍と合流してメディアを征服するように命じた[47]

ユリアヌス率いる本隊はユーフラテス川沿いのカリニクム(現ラッカ)に向かい、遠征のために編成された艦隊と合流した。艦隊は約千艘の船からなり、食糧・武器・攻城兵器が積まれていた。中には浮橋用の平底舟もあった。カリニクムを発った後はキルケシウム (Circesium) (現ブセイラ)にてハブール川を渡り、そのままユーフラテス川を下った。アンミアヌスの記録には、途中経由(陥落・占領・焼き討ち)した都市として、ドゥラ・エウロポス、アナタ (Anatha) 、ティルタ、アカイアカラ、バラクスマルカ、ディアキラ、オゾガルダナ、マケプラクタの名前が出ている[48]。このうちオゾガルダナには、トラヤヌスパルティア遠征時に建てられた裁判所の遺構が残されていた。


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