フラウィウス・クラウディウス・ユリアヌス
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対象となる兵士の多くがガリア出身で、故郷を離れることを望んではおらず、ユリアヌスも彼らにアルプス山脈を越えることはないと以前に宣言していた[13]からである。結局、コンスタンティウスの命令どおり援軍を送るべく、兵を一旦ルテティア(現パリ)に集結させた。だが、彼らが派遣されることはなかった。兵士たちはユリアヌスを囲み、歓呼をもって皇帝(正帝)に推戴したのであった。

ペルシアとの戦いに注力せざるを得なかったコンスタンティウスは、警告を与えるのみで、ただちにはユリアヌスを反逆者として処断しようとはしなかった。ユリアヌスのほうも、コンスタンティウスに対する書簡では「副帝」を自称していた。しかし、ユリアヌスのガリア滞在5周年を記念した祝祭に合わせて当地で発行された貨幣には、両者はどちらも皇帝と刻まれており、実際にはユリアヌスは皇帝(正帝)として振る舞っていた[14]

アラマンニ族の王[注釈 9]を捕らえ、ガリアでの軍事行動に区切りをつけたユリアヌスは、信頼するサッルスティウス (Sallustius) にガリアを任せ、361年夏、コンスタンティウスとの対決に向け、進軍を開始した[15]。行軍速度は非常に速く、10月にはシルミウム(現セルムスカ・ミトロヴィナ)に到着した。この町では、のちに文人仲間となる歴史家のアウレリウス・ウィクトル (Aurelius Victor) と面会している[16]。同月末にはナイスス(現ニシュ)に到った。ユリアヌスをこれ以上放置できなくなったコンスタンティウスは、ペルシアとの戦いを中断し、西へと向かう。しかし361年11月3日、西進する道中にキリキア地方で突然の死を迎えた[17]。臨終の床で、唯一の肉親であるユリアヌスを後継者に指名したと伝えられている。ユリアヌスは同月末、ナイススでその報告を受け取った。

12月11日、ユリアヌスは唯一の皇帝としてコンスタンティノポリスに入城する[18]。時を置かずコンスタンティウスの葬儀を執り行い、この皇帝に対し深い尊敬の念を表した。コンスタンティウスに忠誠を誓っていた東方の兵士を抑えるためにも、簒奪者ではなく、正当な後継者として皇帝に即位したことを示す必要があった[19]。実際に遺言があったかは不明だが、コンスタンティウスが死の間際にユリアヌスを後継者に認めたという噂が、葬儀の後に流れた[20]
皇帝としての改革(361年 - 362年)ユリアヌスの肖像が刻まれたソリドゥス金貨
政治上の改革

コンスタンティウスの葬儀が終わると、翌年初頭にかけて、先帝に従属していた不正を行う者たちを裁く法廷がカルケドンで開かれた。ユリアヌス自身はその法廷には立たず、「異教徒」でオリエンス道長官のサルティウス・セクンドゥス (Salutius Secundus) を代理人に選んだ[21]。この裁判の判事はサルティウス以外に5人いたが、そのうち4人は現職か前職の武官であり、新しい皇帝の権力の源泉としての軍の支持を取り付ける意味が大きかった[22]。そのためユリアヌスは臨席せず、不公平な判決を黙認したと考えられている[23]

カルケドンで裁判が開かれる中、ユリアヌスはコンスタンティノポリスで宮廷の改革に取り組んだ。ディオクレティアヌス以降の帝政後期においては、宮廷ではペルシアをモデルとした新たな様式が導入され、その機能が肥大化していた[24]。禁欲的な新たな皇帝はこれを一挙に縮減した。キリスト教徒の官僚や教会史家の中には、この改革の目的がキリスト教徒の放逐にあると考える者もいたが、実際にはそうではなかった。宮廷の人員の多くはたしかにキリスト教徒であったが、ユリアヌスはその数を削減するのみで「異教徒」と入れ替えることはしなかったからである[25]

宮廷・官僚組織の規模を縮小する一方で、元老院の権威を復興させようという努力もした[26]。宮廷の外においては、都市の再編にも着手した。副帝即位以前に様々な都市に遊学した経験から、各都市の財政負担を減らし、参事会の持つ権限を強化しようと考えた。ユリアヌスにとっての都市(特に帝国東半の)とは、ギリシア文化の伝統を継承する存在であり、ヘレニズムとの調和が必要だと信じていた[27]

つまりユリアヌスの改革の目的は、かつての伝統に回帰することであった。「異教」が中心となる世界を目指していたのである[28]。そのために、市民の皇帝というイメージを再構築しようと試みた。ガリア時代でもそうであったように、ユリアヌスの描く皇帝像はシンプルなものであり、威張らず、豪奢にせず、市民と身近な存在であった。ユリアヌスの心の内にあったモデルは、『ミソポゴン』や『皇帝饗宴』の記述から、マルクス・アウレリウス・アントニヌスだったとされている[29]。これについては、リバニオスも同様の説明をしている[30]
宗教面の改革教派間の議論を見守るユリアヌス
(エドワード・アーミテージ画)

宗教面では、キリスト教への優遇政策を廃止している。ユリアヌスは「異端」とされた者たちに恩赦を与え、キリスト教内部の対立を喚起した[31]。彼は弾圧などの暴力的手段に訴えることなく、巧妙に宗教界の抗争を誘導した[32]。異教祭儀の整備を進めたのも、ユダヤ教エルサレム神殿の再建許可を出したのもそのためであった[33]。これらの行動により、永くキリスト教徒からは「背教者 (Apostata)」の蔑称で呼ばれることになる。

その意図は教育行政に対してもよく現われている。362年6月に布告した勅令で、教師が自らの信じていないものを教えることを禁じた[34]。これはキリスト教徒が教師となること自体は禁じていなかったが、実質的にキリスト教徒は異教のものである古典文学を教授することができなくなった[35]。こうしてユリアヌスは、ギリシアの伝統ある文化・文明の「異教徒」による独占状態を作り出した。次世代の知識人層を「異教徒」で埋め尽くし、そこからのキリスト教徒の排除を図ったのである[36]。ユリアヌスは表面的には宗教的な差別は行わなかったが、その内心では明らかにキリスト教勢力を打倒しようとしていた[37]

一説によれば、彼が復興を目指した「異教」は新プラトン主義の影響を受けたものであり、帝政以前からの伝統であるローマの国家宗教ではなかったという。論者が言うには、ユリアヌスの考えるギリシア的宗教とは、ギリシア神話やローマ神話に代表されるような伝統的多神教ではなく、太陽神[38]とその下降形態である神々からなる単一神教 (henotheism) であった[39][40]


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