フジネットワーク(英: Fuji Network System、略称:FNS)は、キー局のフジテレビ(CX)などFNN(フジニュースネットワーク)に加盟しているテレビ局の放送番組の内、一般番組(ニュース番組以外のもの)を融通する、日本の民放テレビの番組供給組織である。
一般に本項で解説するFNSと別項で解説するニュースネットワークのFNNとを合わせてフジテレビ系列という(FNN、FNSどちらか一方だけでも通じる場合もある)。 FNSは、主に番組の相互供給を目的に組織されたネットワークである。ニュース供給のネットワークは、別組織のFNN(フジニュースネットワーク)が担っている。 フジテレビは1959年3月に開局するが、開局間もない6月、フジテレビ、関西テレビ、東海テレビ、九州朝日放送の4社と「番組交流に関する協定」を締結した[1]。しかし、東海テレビや九州朝日放送はクロス局で、すんなり進んだわけではなかった[1]。 1962年4月、東海テレビはフジテレビと完全ネットを組むが、この年からネット拡大における進撃の歩調が整った[2]。10月1日には、フジテレビ、仙台放送、東海テレビ、関西テレビ、広島テレビ放送、九州朝日放送の6局基幹ネットが完成した[2]。北海道に関しては札幌テレビ放送(1959年開局)が1961年から『タワープレゼント』などの昼間の番組をネットし、1963年にはゴールデンタイムに『三匹の侍』もネットされ、札幌テレビ社史によれば、日本テレビとフジのクロスネット形態と表現されている[2]。 ネットワーク作りで、フジテレビは日本テレビやKRT(現・TBS)の後発ながら、開局後数年を経ただけで、業績的には日本テレビを凌駕し、TBSを肉薄した[3]。その力の強さはフジ単独のものではなく、関西テレビ・東海テレビと組んだキー・準キートリオの結合力にあった[3]。この点、地域新聞資本と強く結ぶTBS系がニュースの提携でネットワークの維持・強化を図ろうとしたことや、プロ野球やプロレスなどのスポーツコンテンツ力で系列拡大を目指した日本テレビ系とは異なる[2]。 フジの幹線ネットワークは1964年の東京オリンピックまではその効率性を謳歌したが、オリンピック後の不況で、これが裏目に出た[4]。65年春には山陽特殊製鋼、山一證券が相次いで破綻し、広告界は逆風に見舞われた[4]。スポンサーも効率を求めたが、それは全国ネットを持たないフジ系列をカットすることだった[4]。どうしてもネットワーク規模の下位にあるものから切られていく[4]。この悲哀を最も感じたのは1964年10月、水野成夫からフジテレビ社長を引き継いだ鹿内信隆だった[4]。なんとしてもネットワークの拡大をしなければならなかったが、VHFは払底していた。鹿内がUHFに強い関心を持つに至るにはそうした背景があった[4]。 1969年4月、フジ社内にFNSの事務局が立ち上がり、ニュースに関わるFNN(1966年10月発足)も活動を開始していた[5]。翌年1月には、FNSの規約も制定され、6月には『季刊FNS』も創刊された。このころ「株式会社FNS」という構想も検討された形跡もある[5]。各地にUHFの新局が誕生し、フジのネットワークが27局に急増したことを受け、1971年5月、フジテレビにネットワーク局が新設され、初代局長には郵政省出身の横田隆(のちフジテレビ常務、テレビ熊本会長)が就任した[5][6]。
概説