フジテレビ
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文化放送・ニッポン放送・先述の映画3社が中心となり[22]、翌7月に予備免許が交付された。その後、事業体として同年11月、東京都千代田区有楽町1丁目7番地(現在の有楽町1丁目9番3号)の糖業会館に資本金6億円で「株式会社富士テレビジョン」として設立(翌年12月に現在の商号に変更 ニッポン放送本社と同居)。

1959年1月に東京都新宿区市谷河田町7番地(現在の新宿区河田町3番1号)に本社ビルを完成させ(本社所在地の変更は1962年)、同年3月1日に東京で3番目(総合局と教育局の区分による都合上で3番目とされているが、総合局と教育局の区分を問わなければ4番目となっている[注釈 19])のテレビ局として放送を開始した(放送開始当時は映像出力10kW、音声出力2.5kW。1960年1月17日に空中線電力を50kWに増力した)。

チャンネルは当初「1」を希望していたが、NHK教育テレビ→NHK総合テレビが獲得[注釈 20]。日本テレビが「4」、ラジオ東京テレビ(現:TBSテレビ)が「6」を取得していたため、第8チャンネルとなった。開局から1986年3月31日までのシンボルマークはチャンネルナンバー「8」を図案化したもの(関西テレビや沖縄テレビとは多少異なる)。ロゴタイプ(ロゴ)は産経新聞(当時はサンケイ)やニッポン放送の旧書体に似た旧フジサンケイグループ標準書体(亀倉雄策の作)だった。

8チャンネルを取得したものの日本の黎明期のテレビ受像機は1956年頃までは6チャンネル・チューナーが一般的であったため、新たに開局した8チャンネルのフジテレビを視聴するためには12チャンネル・チューナのテレビ受像機に買い替えるかチューナの増設が必要であった。

1959年3月1日の開局では、9時20分に最初の番組『開局に際して』(初代社長水野成夫による挨拶)が放映。続いて、開局までの模様を映した記録映画『フジテレビの誕生』が放映された。この日の夜には『スター千一夜』が放映開始。当時の映画会社が締結した「五社協定」により、映画スターのテレビ出演が難しい時代であったが、“芸能番組への出演”という形でなく、時事に絡めた社会の話題として取り上げることにより出演を取り付けるという画期的な方法を採った。

1959年6月17日、渡辺プロダクションの制作指揮による音楽番組『ザ・ヒットパレード』が放映開始。

1960年代

1963年1月1日には、日本初の国産
テレビアニメ鉄腕アトム』が放映開始。さらに1965年10月6日には、日本初のカラーテレビアニメ『ジャングル大帝』の放映を開始。

1964年1月2日、正月恒例の『新春かくし芸大会』が放映開始。翌1965年からは司会者に高橋圭三を迎えて規模も年々拡大、年末年始の風物詩的番組として2010年まで続いた。

1964年8月31日、音楽番組シオノギMUSIC FAIR』が放映開始。2024年現在、放映期間は日本でレギュラー放送されている週間番組の中で、最長である。

1966年10月31日、元内閣総理大臣吉田茂の死去に伴う国葬日本武道館にて営まれるにあたり、当日は華美な歌舞音曲関係の番組を慎み、終日を通して吉田の追悼特番、またはそれに準じる教養色の強い映画・音楽番組に差し替え、CM放送についても終日行わなかった[23]。理由として、「吉田の功績を考えると、特番編成に差し替えるのは当然である」とした。

1967年2月11日、『ズバリ!当てましょう』で自社制作の実写番組では初のカラー放送を実施[24]

1969年、フジテレビ労組で女子社員の25歳定年制の撤廃が議論される。同制度に抗議して、全女子社員が赤いバラを胸に付けて抗議活動をした。同年、東京都地労委にあっせん申請。

1969年10月5日には、テレビアニメ『サザエさん』が放送開始。世界で最も長く放送さてているテレビアニメ番組として、ギネス世界記録にも認定され、フジテレビひいては日本を代表する看板アニメ番組となった。

1970年代

1970年
2月10日、沈没した貨物船かりふぉるにあ丸を取材するためにチャーターした小型飛行機が墜落。カメラマン1人を含む3人が犠牲となった[25]

1974年、大型音楽番組『FNS歌謡祭』が放送開始。当初は、コンテスト形式で年2回放送されていたが、1991年からコンサート形式へリニューアルして以後、毎年冬(年末)に放送されている。

1976年、『プロ野球ニュース』がキャスターに佐々木信也を迎えて放送再開される[注釈 21]

1977年、ザ・ドリフターズがメイン出演のバラエティ番組『ドリフ大爆笑』が月1レギュラー番組として放送開始。軒並み高視聴率を連発して、1980年12月23日の放送では同番組の最高視聴率である40.4%を記録した。

1980年代

1981年にそれまでの「母と子のフジテレビ」を改め、「楽しくなければテレビじゃない」というキャッチフレーズを打ち出した。面白い番組・視聴者の笑いを取れる番組を生み出そうという意識改革の
スローガンであった。そこから横澤彪がプロデュースした『THE MANZAI』『オレたちひょうきん族』『笑っていいとも!』『オールナイトフジ』など数々の人気番組が生まれていった。このような状況は当時のキャッチコピーから「軽チャー路線」(かるちゃーろせん)とも評された。バラエティ番組中心の編成は結果として視聴者の支持を集め、1982年に「年間視聴率3冠王」(ゴールデンプライム全日でトップ)を獲得。
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