フジテレビジョン
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この人員整理で元アナウンサーや元プロデューサーなどを含む数十人が退社した[46]


制作分離と80年大改革

1968年から翌年にかけて、日本におけるカラーテレビ台数は、150万台から350万台という驚異的な伸びを見せた[47]。このような急速なカラー化の動きに対応して、フジテレビでは1968年1月にマンモススタジオ(のちの第6スタジオ)の起工式を行うなど積極的な対策に乗り出し、他局も同じように、カラー対策に設備投資など膨大な費用を計上をせざるを得ない状況であった[47]。しかもこの1968年には、各系列ともUHF局の開局が相次いだため、東京のキー局の懐具合は、いずれも厳しいものだった[47]。そこで各局はそれぞれの現況に合った経営の合理化を推進することになった[48]

1970年1月、TBSでは従来から番組面で交流の深かった木下恵介監督を中心にして「木下恵介プロダクション」を設立してドラマを外注することになり、2月にはスタジオドラマの草分け的存在の石川甫プロデューサーを社長にドラマ制作集団「テレパック」が結成された[48]。また同月には、局内制作に限界を感じた現場スタッフが機を同じくしてTBSを退社し、その退職金を資本にして「テレビマンユニオン」も誕生した[48]。この折に、それら動きをじっと見ていたのが、フジの鹿内信隆社長だった[49]。TBS同様にカラー問題などで経営合理化を考えていた鹿内は、この制作プロダクション問題にすぐに飛びついて早速総務に原案の作成を命じた[49]。鹿内の狙いは、報道部門と『小川宏ショー』などスタジオ生放送を除いて、すべてのドラマ・芸能番組を制作プロダクションに移行するという破天荒なものだった[49]。これについて編成出身の福田英雄副社長や常務の村上七郎などは、「フジの制作部門の社員は、老練なTBSのスタッフと異なり、いずれも若く、しかも独立など毛頭考えてもいない。考え方としてはともかく、時期尚早である」と反対意見を申し立てた[49]。だが、鹿内は「早いからこそ今できるのだよ」とのことで、この流れは変わらなかった[49]

1970年2月、「フジポニー」(石田達郎社長・坊城俊周専務)が、7月には音楽番組を中心として「ワイドプロモーション」(伊藤昭社長)がそれぞれ設立され、この両社に対してフジから約40名が第一陣として出向した[50]。12月になるとドラマその他一般芸能番組を制作する「フジプロダクション」(河野義徳社長、岡田太郎専務)の大部隊が、年を明けてドラマの「新制作」(嶋田親一社長)が相次いで設立され、この4社に約150人の社員が出向、退社、転属などの形で移動することになり、河田町制作局はついに廃止となった[51]

経営合理化の発想としては、競争の原理に基づいて、この4つのプロダクションを競わせ、それを通じて番組の活性化を図ろうとしたのだが、事実は思い通りには動かなかった[51]。ことに昨日までの仲間であった編成と制作プロの間には、受注、発注という厳しい関係が突如生じて、人間関係にギクシャクしたものが現れ、何とも気まずい事態が度々起こるようになった[51]。この結果、1970年代のフジテレビは低迷に苦しみ、視聴率の面で悪戦苦闘を続けた[52]。1960年代はフジでも、レギュラー番組では『スター千一夜』『鉄腕アトム』『三匹の侍』などが気をはいていたが、1970年代に到ると、『サザエさん』くらいしかなる[52]。これによって、かつては三強一弱(弱は日本教育テレビ。現在のテレビ朝日)といわれていた勢力図が二強二弱(弱はフジと日本教育テレビ)といわれるようになった[52]
80年大改革

視聴率ばかりでなく、営業成績もキー局中最低となったことを受け[53]1980年5月1日の取締役会で鹿内フジ会長は、「フジサンケイグループの今年のスローガンは<80年を飛躍の年に 失敗を恐れずに挑戦しよう>に決めた。これを実践遂行するために、3つの目標を立て[注釈 29]、思い切って社内改革を行う。私は会長のまま社長代行を兼務し第一線の指揮をとる。浅野(浅野賢澄)社長は、民放連会長、電波企画室、ネット各社の電波行政上必要な業務を統括する。会長不在の場合を考え、鹿内春雄を代表取締役副社長に任命し、社長代行の権限を代理統括させる。」と発言して、全員の了承を得た[54]


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