フジテレビジョン
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在京キー局としては4番目に開局したテレビ局で、産経新聞社ニッポン放送などにより構成されるフジサンケイグループの一員である。旧法人(現・フジ・メディア・ホールディングス)はフジサンケイグループの中核企業であり、事業持株会社となっていたが、現行会社はフジテレビグループの中核企業として扱われている[4]

各地域の系列局28社で、番組の供給・ネットを目的とするフジネットワーク (FNS:Fuji Network System) と、ニュース素材の供給・ネットを目的とするフジニュースネットワーク (FNN:Fuji News Network) を組織している。FNN(ニュース)の取材対象地域には、青森県山梨県が含まれる[注釈 3]

地上波放送の他にスカパー!プレミアムサービス(東経124・128度CS放送)、および衛星基幹放送事業者であるサテライト・サービスを通じてスカパー!(旧・スカパー!e2)(東経110度CS放送)で、フジテレビONEフジテレビTWOフジテレビNEXTの3つのチャンネル(フジテレビワンツーネクスト)を放送していて、一部のケーブルテレビ事業者へもこれらのチャンネルの供給を行っている。

2008年10月1日に株式会社フジテレビジョン(旧会社)は、株式会社フジ・メディア・ホールディングスに商号変更、テレビジョン放送関連事業を同日設立[注釈 4]した新会社たる「株式会社フジテレビジョン」(現行会社)に事業譲渡および放送免許を承継し、純粋持株会社また、認定放送持株会社となった。
略称について

略称は、開局から現在に至るまで正式に定められたことがなく[注釈 5]、後述の通りコールサイン「JOCX-DTV」(東京 21ch)から一般的に用いられるCX(シーエックス)が用いられている。

略称は開局当初、「FTV」が用いられた。しかし正式な略称として定めておらず、後に開局した系列局の福島テレビ[注釈 6]が「FTV」を正式な略称として使用するようになった。以後、コールサインから「CX」の略称が用いられている。これも正式な略称として定められたものではないが、次第にその略称を頻用する[注釈 7]ようになり、現在に至る。

社名の由来は諸説あるが、代表的なものとして、開局にあたり創業者の1人で当時専務取締役だった鹿内信隆が、「庶民に愛されなくてはならない。ポピュラーなものでなくてはならない。日本でポピュラーと言えば、富士だから、仮に富士テレビでどうだろうか」と提案の上で、社名を当初予定していた「(仮称)中央テレビジョン」[注釈 8]から「富士テレビジョン」に改めた。しかし、漢字の「富士」は画数が多く、「フジテレビジョン」に変更された、というものがある。
沿革

1957年

7月8日 - 予備免許を受ける。

11月18日 - 文化放送とニッポン放送を主体とし、
東宝松竹大映映画会社各社が参加して、株式会社富士テレビジョン設立(「富士テレビ」に決定される前は「中央テレビジョン[注釈 9]」で仮決定されていた)。


1958年12月 - 商号を株式会社フジテレビジョンに変更。

1959年

1月9日 - 本免許を受ける。

2月8日 - 試験放送を始める。

3月1日 - 午前9時20分から地上アナログテレビジョン放送の本放送を東京都で4番目のテレビ局として開始(JOCX-TV/東京8ch)。最初の番組は『開局に際して』(水野成夫社長の挨拶)。開局は大阪・毎日放送テレビ(MBS・JOOR-TV/大阪4ch)と福岡・九州朝日放送テレビ(KBC・JOIF-TV/福岡1ch)と同日。関西地区においては、関西テレビ(KTV)と毎日放送とのネットワーク関係を結ぶが、翌年関西テレビに1本化する。

6月1日 - 東名阪福の基幹4局(フジテレビ・東海テレビ(THK)・関西テレビ・九州朝日放送)でネットワーク協力体制に調印する。これが後のフジネットワーク(FNS)の基礎となる。


1960年1月17日 - 本局の送信出力を映像50kW、音声12.5kWに増力する。

1964年

9月3日 - 東京オリンピックの開催を控え、カラー試験放送を開始(東京地区では3番目)。最初の番組は『僕は見たんだ』で、午前10時半からの30分番組[5]

9月7日 - カラー本放送を開始。カラー本放送番組第1弾は、この日から始まった19時からの30分の新番組、イギリスの特撮人形劇『海底大戦争 スティングレイ』。更に、同日のこの番組から、電電公社のマイクロネット回線を使った、カラー番組の同時ネットの送り出しを開始[注釈 10][6]

10月1日 - 福岡地区のネット局が九州朝日放送からテレビ西日本(TNC)に変更され、フジテレビ・東海テレビ・関西テレビ・テレビ西日本の4社によるネットワーク協力体制が確立する。


1966年10月3日 - フジニュースネットワーク(FNN)発足。

1967年

2月11日 - 自社制作に於いて初のスタジオカラーカメラ実写・カラーVTR使用による番組が放送される。第1弾は、クイズ番組『ズバリ!当てましょう』で、同番組カラー放送第1回にちなんで、『カラーで当てましょう』という題が付けられた[注釈 11]

12月24日 - この日の「競馬中継」(中山競馬場からの「第12回有馬記念」の中継)にて、フジテレビ自社の競馬中継に於いて、初のカラー放送を行う[7][8][注釈 12]


1969年

フジテレビの開局10周年の機に住吉町商店会による商店街「フジテレビ下通り」(現:あけぼのばし通り)のアーケード看板が設置された(1998年9月に撤去)。

10月1日

フジネットワーク(FNS)発足。

この日の午後0時45分からのニュースから、カラーによるニュース番組が開始。これに伴い、報道に於いてのカラーフィルムでの取材を本格的に開始する[9]


タワースタジオ完成[10]


1971年 - 制作局を廃止させ、フジプロダクション、新制作(のちにフジプロダクションに統合)、フジポニー・ワイドプロモーション(のちのフジ制作)に分割して系列子会社化、報道・スポーツ・生番組以外の番組の制作を委託する(1980年まで系列子会社の再編をしながらこの体制が続く)。

1973年 - 『キンカン素人民謡名人戦』を最後に、自主制作番組がすべてカラー放送になる。

1978年10月2日 - 音声多重放送実用化試験開始。東京では日本テレビ、NHK(日本放送協会)に次いで3局目。第1弾は、同日午後5時からのアメリカテレビ映画『コンバット!』の2か国語放送。ステレオ放送第1弾は、同日午後7時から放送された神宮球場からのヤクルト巨人戦であった。

1980年 - この年の機構改革で「制作局」を再発足、報道・スポーツ・生番組以外の自社制作を復活させる。

1984年

フジサンケイグループ議長・鹿内春雄が将来の衛星放送事業(現在のBSフジやフジテレビワンツーネクストなど)参画による業務拡大に伴い、局舎面積拡大の必要性を訴え、新宿区河田町から当時はまだ更地であった台場への社屋移転構想を発表する(#お台場移転の経緯を参照)。


1985年

4月 - フジサンケイグループのシンボルマーク及び社章・『目玉マーク』を制定。(民間放送のシンボルマークの制定は日本テレビに次いで2番目、統一CI導入当日の翌1986年4月1日から正式に使用を開始。


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