フォードは乗用車やトラックを年間1万台生産し、トヨタ自動車、日産自動車、いすゞ自動車を始め、大阪に工場を置いた日本ゼネラル・モータースをしのぐ国内最大の自動車メーカーとなった。また、子安工場製のフォード車は日本の友好国である満州国などにも輸出された。
しかし、日米間の関係が悪化しつつあった1936年(昭和11年)に、日本政府は国策として自国の自動車産業の保護育成を目的とする「自動車製造事業法」を制定した。この法律により、国内資本が50 %以上の企業のみ自動車製造が許可されることになり、100 %アメリカ資本だったフォードは1940年(昭和15年)に操業停止を余儀なくされる。 太平洋戦争中の1941年(昭和16年)12月から1945年(昭和20年)8月の期間、工場設備は日本政府に接収されたが、戦後の連合国軍の管理を経て1958年(昭和33年)までにフォードに返還された。現在、この一帯(子安地区)はマツダのR&D(研究開発)センターとなっている。また、現在の新横浜地区では、東海道新幹線の計画が発表される以前、「フォードが工場を作るらしい」という触れ込みで土地の売買が盛んに行われていた。 終戦後しばらく、フォードは日本での事業に直接携わっていなかったが、各地方のディーラーが輸入代理店としてフォード車を販売していた。 1937年(昭和12年)よりフォードのディーラーであった札幌市の「北海自動車工業」と、1952年(昭和27年)にフォードソン(Fordson
第二次世界大戦後
1974年、正式な日本法人として「フォード自動車(日本)株式会社」(FOJ)が設立され、既存の販売会社との特約店契約が締結され、初の全国販売網が構築された。
マツダとの資本提携以前はホンダも販売に加わっていた。1974年(昭和49年)2月、中古車販売を統括していた「ホンダ中販」を「ホンダインターナショナルセールス(HISCO)」に社名変更し、全国販売網を展開していた。
マツダとの提携フォード・テルスター
1979年(昭和54年)には日本の中堅自動車メーカーであるマツダと資本提携し、マツダの株式の24.5 %を取得した。マツダにはアジアやオセアニア、またアメリカ向け小型車の開発と生産を委託したほか、「オートラマ」の名で全国にディーラーネットワークを展開し、「レーザー」や「テルスター」、「フェスティバ」など、マツダの工場で生産されたフォードの各モデルや、「マスタング」などのアメリカからの輸入モデルを販売するなど、日本でのフォードビジネスを共同で展開していた。
しかし1990年代に入り、バブル崩壊や販売多チャンネル化の失敗などによりマツダの経営状態が悪化したため、1996年(平成8年)にフォードはマツダへの出資比率を33.4 %に引き上げて自社の傘下におき、最高執行責任者のマーク・フィールズ、最高財務責任者のボブ・シャンクス、欧州担当のスティーブン・オデール氏、エンジン開発担当のジョセフ・バカーイなど役員を多数マツダに出向させた(マツダ・マフィア)[24]。
その後マツダの経営再建は進んだものの、2000年代後半に経営危機に陥ったフォードは、資金調達のためにマツダへの出資比率を2008年(平成20年)より段階的に引き下げ、2015年(平成27年)までに所有する全てのマツダ株式を売却した。これにより、30年以上続いたマツダとの資本提携は解消された。 第二次世界大戦後の日本でのフォードビジネスは「フォード自動車(日本)」、そしてマツダとの提携下で展開した「オートラマ」を経て、その後「フォード・ジャパン・リミテッド」がフォード車の輸入・販売を行っていたが、2016年(平成28年)をもって日本市場から撤退すると発表した[25][26]。 この理由として本家フォード車の不振と前年のマツダ株の完全売却に加え、「収益改善への合理的な道筋が見えないこと」「日本市場の閉鎖性」を挙げている。日本市場からの撤退に伴い、直営販売子会社の「フォード・ジャパン・ディーラーリミテッド」および日本統括法人の「フォード・ジャパン・リミテッド(フォード・ジャパン)」は完全閉鎖となり、全国の販売会社は契約が解除されて正規ディーラー網は消滅した。これにより、111年間続いてきた日本におけるフォードによる事業の歴史は幕を閉じた。詳細は「オートラマ」および「フォード・ジャパン」を参照「輸入車#マイナス面」も参照 日本撤退後、フォード・ジャパン・リミテッドは正規輸入車に対するアフターサービスを、VTホールディングスグループの「ピーシーアイ」に委託し、全国の認定ディーラーへの部品供給・リコール対応およびアフターサービスの保証業務を行っている[27][28]。
撤退
現在