1920年代後半から1930年代にかけての大恐慌時には、フォード社の高い月給は労働者を多数集めたものの、工場の労働と規則は厳しいものだった。また大恐慌における自動車需要の収縮でフォードの他社との競争は激化した。なおこの頃航空機製造にも乗り出し、「トライモーター」などの旅客機を世に送り出した。
海外進出フォード・モデル68(1936年)
GMとの競争は、早くから海外への進出も目を向けることにも繋がった。イギリス・フォードが1911年から、ドイツ・フォード(英語版)が1931年からと、古くから現地生産が行われ、1967年にフォード・オブ・ヨーロッパ(英語版)(以下、欧州フォード)が設立され、それ以降はモデルの一元化が推進され、1970年代から1980年代を通して完全に一元化された。欧州フォード車はフォードブランドであっても欧州車そのものであり、マッスルな北米部門に対し、車体剛性、操縦安定性、ハンドリングに優れたモデルを擁する、質実剛健な欧州部門という方向性となっていた。
またアジアへの進出も早くから行われ、1925年(大正14年)2月には、世界五大国の1つであり、自動車市場の成長が期待されていた日本の横浜市に日本法人の「日本フォード」を設立し、組み立て工場(日本フォード子安工場)を置いた。アメリカで生産されていたモデル(2代目 Model AとModel AA)を生産、販売したが、当時の主な市場はタクシー、トラック、バスなどの運輸業向け営業車であったが、その後富裕層を中心とした自家用車市場にも食い込んでいった。
その後GMもこれに続き、1927年(昭和2年)1月に大阪市に日本ゼネラル・モータースを設立、この時期から1940年(昭和15年)頃までの間に、米国のフォードとGM、英国のオースチン、そして国産のダットサンやオオタの各モデルが一般オーナーに広く普及したことにより、自動車販売網やガソリンスタンド、オーナーズクラブなどがつくられ、日本の自動車文化、自動車趣味の基礎が出来上がった。
1926年にはオーストラリアのジーロングにフォード・オーストラリアを開設し、1970年代以降、オセアニア独自モデルの生産を続けている。1929年にはソビエト連邦での共同事業としてニジニ・ノヴゴロドにNNAZ(ニジニ・ノヴゴロド自動車工場、現在のGAZ)を開設した。
第二次世界大戦フォードのウィローラン工場で大量生産されるB-24爆撃機
フランクリン・ルーズベルト大統領はデトロイトを「民主主義の兵器廠」と呼んだ。フォード・モーターもこれに深く貢献しており、第一次世界大戦および第二次世界大戦では重要な役割を果たした。ヘンリー・フォードは「戦争は時間の無駄」と言ったと伝えられ、戦争から利益を上げることを嫌悪した。しかしフォードは多くの自動車を軍に納めたほか、1930年代のナチス政権下のドイツにおけるフォード工場の国有化に協力しドイツから勲章を得た。
一方でフォードは第二次世界大戦勃発後の生産増強に際し天才的な才能を発揮し、軍用機・軍用車生産の効率を飛躍的に高めた。コンソリデーテッドB-24爆撃機の製造のために1941年4月にアナーバー近郊で着工したウィローラン工場は面積33万平方メートルで、当時世界最大の流れ作業ラインを持つ工場であった。B-24製造にあたって、飛行機会社では1日1機の製造が精いっぱいだったが、ウィローラン工場では24時間体制で1時間1機のB-24を生産した。
ウィローラン工場建設のストレスで社長エドセル・フォードは1943年春に胃がんで死去し、再び父ヘンリー・フォード1世が経営者となった。ウィローラン工場は1943年8月生産開始し、大量の爆撃機を送り出した。またフォードは他社とともにM4中戦車やジープ(GP/GPW)の生産にもあたっている。
なお、第二次世界大戦中は多くの男性労働力が戦場へと駆り出された他、新型車の開発、発売がストップしたのみならず、鉄やガソリンの調達さえ困難になり、アメリカ国内でガソリンの販売規制が行われたことから乗用車の販売が激減した。
第二次世界大戦後フォード・カスタム(1949年)ゼファーシックス(1954年)エドセル(1958年)
ヘンリー・フォードは最年長の孫であるヘンリー・フォード2世を次期フォード社長に指名し、1947年に死去した。