日本への輸出は、日露戦争が終結した1905年(明治38年)に開始された。その後第一次世界大戦の戦勝国かつ世界五大国のひとつとなり、当時のアジア最大の経済大国となり、さらに関東大震災後にバスやタクシーの需要が急増した日本を重視したフォードは、1925年(大正14年)2月に神奈川県横浜市緑町(現・西区みなとみらい)に「日本フォード」を設立した。緑町工場の敷地は約2,500坪で、主にフォード・モデルT(左ハンドル)の組み立て(ノックダウン生産)が行われた[19]。
第二次世界大戦前
フォードは乗用車やトラックを年間1万台生産し、トヨタ自動車、日産自動車、いすゞ自動車を始め、大阪に工場を置いた日本ゼネラル・モータースをしのぐ国内最大の自動車メーカーとなった。また、子安工場製のフォード車は日本の友好国である満州国などにも輸出された。
しかし、日米間の関係が悪化しつつあった1936年(昭和11年)に、日本政府は国策として自国の自動車産業の保護育成を目的とする「自動車製造事業法」を制定した。この法律により、国内資本が50 %以上の企業のみ自動車製造が許可されることになり、100 %アメリカ資本だったフォードは1940年(昭和15年)に操業停止を余儀なくされる。 太平洋戦争中の1941年(昭和16年)12月から1945年(昭和20年)8月の期間、工場設備は日本政府に接収されたが、戦後の連合国軍の管理を経て1958年(昭和33年)までにフォードに返還された。現在、この一帯(子安地区)はマツダのR&D(研究開発)センターとなっている。また、現在の新横浜地区では、東海道新幹線の計画が発表される以前、「フォードが工場を作るらしい」という触れ込みで土地の売買が盛んに行われていた。 終戦後しばらく、フォードは日本での事業に直接携わっていなかったが、各地方のディーラーが輸入代理店としてフォード車を販売していた。 1937年(昭和12年)よりフォードのディーラーであった札幌市の「北海自動車工業」と、1952年(昭和27年)にフォードソン(Fordson
第二次世界大戦後
1974年、正式な日本法人として「フォード自動車(日本)株式会社」(FOJ)が設立され、既存の販売会社との特約店契約が締結され、初の全国販売網が構築された。
マツダとの資本提携以前はホンダも販売に加わっていた。1974年(昭和49年)2月、中古車販売を統括していた「ホンダ中販」を「ホンダインターナショナルセールス(HISCO)」に社名変更し、全国販売網を展開していた。
マツダとの提携フォード・テルスター
1979年(昭和54年)には日本の中堅自動車メーカーであるマツダと資本提携し、マツダの株式の24.5 %を取得した。マツダにはアジアやオセアニア、またアメリカ向け小型車の開発と生産を委託したほか、「オートラマ」の名で全国にディーラーネットワークを展開し、「レーザー」や「テルスター」、「フェスティバ」など、マツダの工場で生産されたフォードの各モデルや、「マスタング」などのアメリカからの輸入モデルを販売するなど、日本でのフォードビジネスを共同で展開していた。