フォード・モーター
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フォード開業当時のモデルはデトロイト市内のマック・アベニューにある貸工場で生産され、部品を自動車へ組み上げる作業を1台当たり2・3人の工員が数日かけて行っていたが、フォードではそれまでばらつきのあった部品をマイクロゲージを基準とした規格化によって均質化し、部品互換性を確保することに成功していた。フォード・モデルTは初めての自社工場であるピケットロード工場を利用し、フル生産開始の1909年には1年間で1万8千台もの台数を生産した。廉価なT型への需要が急増すると、フォードはさらに大型のハイランドパーク工場を建設し、1911年の稼働時には年7万台の生産を可能とした。フォード社は流れ作業システムや大量生産に必要な技術・管理方式を開発し、1913年には世界初のベルトコンベア式組み立て生産ラインを導入した[2]。部品の簡素化・内製化、流れ作業による工員の間での分業化により、たとえば車体1台の組み立て時間は12時間半からわずか2時間40分に短縮され、年生産台数は25万台を超え、1920年までに100万台を突破した。

しかし生産技術革新は、工員にとっては、同じ動作だけの単調な労働を長時間強いられる極めて過酷なもので、人員の異動や退職も多く、未熟練工員の雇用や訓練コスト高に結びついた。ただでさえアメリカの労働力が不足する中、フォードは労働力確保を迫られ、1914年には1日当たりの給料を2倍の5ドル(2006年の価値では103ドルに相当する)へと引き上げ、勤務シフトを1日9時間から1日8時間・週5日労働へと短縮する宣言を発し、結果応募者が退職者を上回り続けることになった。合衆国政府が最低賃金や週40時間労働の基準を決める以前にこれを達成したことになる。一方でヘンリー・フォードは労働組合の結成には反対し続けた。

労働力不足と賃金上昇で1台当たりのコストは上がったが、フォードは販売価格に転嫁せず、生産コストを矢継ぎ早に削減することでコスト上昇分を吸収した。またフォードのブランドに忠実なフランチャイズ販売店システムを導入した。ヘンリー・フォードは、従業員が自社の車を買えるように賃金を引き上げたが、こうした厚遇は当時のウォール街の金融機関などから批判を浴びている。しかしフォードは成功を収め、1919年末にはアメリカの自動車生産の半分を担い、1920年には全米の自動車の半分がフォード・モデルTとなった。T型以前のモデルでは黒以外の多様なバラエティがあったが、T型はペンキの乾きが早く済むという理由で黒1色しかなかった。

1915年にはヘンリー・フォードは第一次世界大戦の休戦を模索するために平和使節としてヨーロッパへ渡っている。これは彼への人気を高めたが、一方でフォード・モデルTは連合国軍用車となって戦争を支えた。
フォードの転機

フォード社はフォード・モデルTだけを製造し続け1927年まで20年近くを一モデルの改良と生産工程の改良、販売サービス網の充実に費やす。当時金持ちのおもちゃといわれた自動車大量生産によって大幅に値下げし、車は大衆的な輸送手段となった。この成功によって150社程もあった米国自動車会社の中からフォード社はアメリカ市場の5割を占める大会社となった。

1919年にヘンリーの息子エドセル・フォードが社長を引き継いだが、社の実権は創業者ヘンリーが握り続けた。社の経営はヘンリーの個人経営同然であった。彼は安価に大量にT型を供給し続けることしか念頭にない節もあり、より上級の車を求める顧客の需要を無視し、生産性のさらなる向上でT型の価格を下げ続けた。

この隙をついてGMクライスラーシェアを伸ばし、アメリカ内外の競合企業がT型より新鮮なデザインと優れた性能の自動車で顧客の需要を奪った。もともと多様な自動車会社が合併して生まれたGMは、大衆車から超高級車までのあらゆる価格帯の自動車を販売しており、さらに矢継ぎ早のモデルチェンジで常に最新型を供給して以前のモデルを時代遅れのものとし、T型しか買えない層よりも裕福な層をつかんだ。またGMほか競合企業はオートローンによる信用販売により、所得の低い層でも分割払いで高い自動車を買える仕組みを築いた。フォードA型(1928年)

社長のエドセルは早くからT型のモデルチェンジを考えており、それは社内や販売店の意向も同様だった。しかし、ヘンリー・フォードはこれを一顧だにせず、オートローンについても、顧客が借金を抱える販売手法は長い目で見て消費者国家経済を疲弊・荒廃させるとして強く抵抗した。これら固執は後に失政ともいわれた。

しかしT型の性能・デザイン面での陳腐化は明らかだった。1926年1月の月間登録台数は、ゼネラル・モータースの約44,000台に対し、モデルT一辺倒のフォード約90,000台と倍以上のシェアを有していたが、同年11月には計画的陳腐化で毎年の新車効果を狙うゼネラル・モータースがシェアで逆転[3]1927年12月にはついに、1,500万台を販売したT型の生産を中止し、心機一転、モデル名を振り出しに戻し再びA型と名乗る車を導入した。一方、1922年2月4日にはリンカーンを買収し、フォードは高級車市場へ参入している。また1938年には大衆車フォードと高級車リンカーンの中間にあたるマーキュリーブランドを立ち上げ、ようやく中級車市場へも参入した。

1920年代後半から1930年代にかけての大恐慌時には、フォード社の高い月給は労働者を多数集めたものの、工場の労働と規則は厳しいものだった。また大恐慌における自動車需要の収縮でフォードの他社との競争は激化した。なおこの頃航空機製造にも乗り出し、「トライモーター」などの旅客機を世に送り出した。
海外進出フォード・モデル68(1936年)

GMとの競争は、早くから海外への進出も目を向けることにも繋がった。イギリス・フォード1911年から、ドイツ・フォード(英語版)が1931年からと、古くから現地生産が行われ、1967年にフォード・オブ・ヨーロッパ(英語版)(以下、欧州フォード)が設立され、それ以降はモデルの一元化が推進され、1970年代から1980年代を通して完全に一元化された。欧州フォード車はフォードブランドであっても欧州車そのものであり、マッスルな北米部門に対し、車体剛性、操縦安定性、ハンドリングに優れたモデルを擁する、質実剛健な欧州部門という方向性となっていた。

またアジアへの進出も早くから行われ、1925年大正14年)2月には、世界五大国の1つであり、自動車市場の成長が期待されていた日本横浜市に日本法人の「日本フォード」を設立し、組み立て工場(日本フォード子安工場)を置いた。アメリカで生産されていたモデル(2代目 Model AとModel AA)を生産、販売したが、当時の主な市場はタクシートラックバスなどの運輸業向け営業車であったが、その後富裕層を中心とした自家用車市場にも食い込んでいった。

その後GMもこれに続き、1927年昭和2年)1月に大阪市日本ゼネラル・モータースを設立、この時期から1940年(昭和15年)頃までの間に、米国のフォードとGM、英国のオースチン、そして国産のダットサンオオタの各モデルが一般オーナーに広く普及したことにより、自動車販売網ガソリンスタンド、オーナーズクラブなどがつくられ、日本の自動車文化、自動車趣味の基礎が出来上がった。

1926年にはオーストラリアジーロングフォード・オーストラリアを開設し、1970年代以降、オセアニア独自モデルの生産を続けている。1929年にはソビエト連邦での共同事業としてニジニ・ノヴゴロドにNNAZ(ニジニ・ノヴゴロド自動車工場、現在のGAZ)を開設した。
第二次世界大戦フォードのウィローラン工場で大量生産されるB-24爆撃機

フランクリン・ルーズベルト大統領はデトロイトを「民主主義の兵器廠」と呼んだ。


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