フォード・モーター
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フランクリン・ルーズベルト大統領はデトロイトを「民主主義の兵器廠」と呼んだ。フォード・モーターもこれに深く貢献しており、第一次世界大戦および第二次世界大戦では重要な役割を果たした。ヘンリー・フォードは「戦争は時間の無駄」と言ったと伝えられ、戦争から利益を上げることを嫌悪した。しかしフォードは多くの自動車を軍に納めたほか、1930年代ナチス政権下のドイツにおけるフォード工場の国有化に協力しドイツから勲章を得た。

一方でフォードは第二次世界大戦勃発後の生産増強に際し天才的な才能を発揮し、軍用機軍用車生産の効率を飛躍的に高めた。コンソリデーテッドB-24爆撃機の製造のために1941年4月にアナーバー近郊で着工したウィローラン工場は面積33万平方メートルで、当時世界最大の流れ作業ラインを持つ工場であった。B-24製造にあたって、飛行機会社では1日1機の製造が精いっぱいだったが、ウィローラン工場では24時間体制で1時間1機のB-24を生産した。

ウィローラン工場建設のストレスで社長エドセル・フォードは1943年春に胃がんで死去し、再び父ヘンリー・フォード1世が経営者となった。ウィローラン工場は1943年8月生産開始し、大量の爆撃機を送り出した。またフォードは他社とともにM4中戦車ジープ(GP/GPW)の生産にもあたっている。

なお、第二次世界大戦中は多くの男性労働力が戦場へと駆り出された他、新型車の開発、発売がストップしたのみならず、鉄やガソリンの調達さえ困難になり、アメリカ国内でガソリンの販売規制が行われたことから乗用車の販売が激減した。
第二次世界大戦後フォード・カスタム(1949年)ゼファーシックス(1954年)エドセル(1958年)

ヘンリー・フォードは最年長の孫であるヘンリー・フォード2世を次期フォード社長に指名し、1947年に死去した。ヘンリー2世は1945年から1960年まで社長を務め、1960年から1980年まで会長・CEOを務めた。その最中、1956年にフォードは公開会社となったが、現在に至るまでフォード家が議決権株式の40%を支配し続けている。

1946年に、ハーバード・ビジネス・スクールを経てアメリカ陸軍航空軍で統計学を用いて戦略爆撃を立案・分析したロバート・マクナマラがフォードに入社し、経営計画および財務分析を担当する重役となる。

マクナマラはヘンリー2世の支持を得て、創業者と大戦特需を失い危機に陥ったフォードを立て直し、トップレベルの経営担当重役を歴任したうえで1960年11月9日にはフォード家以外では初となる社長に就任した。しかし、就任から5週間もたたないうちにアメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディに請われてホワイトハウス入りし、国防長官に就任した。

アメリカ経済が戦禍から立ち直りつつあった1949年に、フォードは戦後初の本格的な新型車「カスタム」を発表し、その斬新なデザインをもってヒット作となった。

その後も幅広いバリエーションを持つフェアレーンや、名車と称えられるサンダーバードをヒットさせ、併せて第二次世界大戦前から展開していたヨーロッパ市場においても、イギリス・フォードのアングリアやゼファーなどのヒットにより、その立ち位置を盤石なものとした。
エドセルの失敗

1958年には、フォードとマーキュリーの間のレインジを担当する、斬新なフロントグリルを特徴とする中級車ブランド「エドセル」を、大々的なキャンペーンとともに発売した。

しかし、亡き社長の名を取って「エドセル」と名付けられた新ブランドは、折からの不況マーケティングの失敗、そしてデザインが受け入れられなかったために、その後追加モデルの投入を行ったにもかかわらず自動車業界史上記録的な大失敗に終わり、1959年11月に生産中止となり姿を消す。
アイアコッカ時代フォード・マスタング(1964年型)フォード・ピント(1971年型)

エドセルの大失敗で打撃を受けたフォードは、行き過ぎた大型化の反動から中型車や小型車へのシフトが始まった業界の動向にあわせ、1960年に発表したコンパクトカーのフォード・ファルコンをヒットさせた。

さらに1964年にはファルコンをベースに、第二次世界大戦後に生まれたベビーブーマーをはじめとする幅広い層をターゲットにしたフォード・マスタングを発表し、こちらも大きな成功を収めた。1967年には欧州フォード(英語版)が設立された。

1970年1月、マクナマラの部下の一人で、マスタング等の大成功した車種の開発や、リンカーンおよびマーキュリーブランドの立て直しにあたったリー・アイアコッカが新たに社長に就任した。

1970年代以降、フォードはビッグ3のライバルのほか、オイルショックの影響を受けて急速に伸びた日本製小型車との競争でシェアを失ったが、アイアコッカは後に安全性をめぐり訴訟へ発展したフォード・ピント1971年)などを発売し、1978年には史上最高の売上と22億ドルの利益を達成した。

しかし、経営方針を巡って会長のヘンリー2世と衝突し続けたアイアコッカは、同年7月13日解雇された。アイアコッカは解雇後まもなくライバルのクライスラーの社長に就任し、同社の再建に取り組むこととなる。
1980年代初代トーラス(1985年)

アイアコッカの後は、フィル・コールドウェルが1979年に会長になり、1985年にドン・ピーターセンが継いだ。なお、1979年には日本のマツダと資本提携し、傘下に置きつつ共同で小型車の開発や生産を行った。


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