フォート・ワース
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のちにこれらの取引所は現在のフォートワースのトリニティ川のクリアフォークとウエストフォークの合流点となった[11]。1849年、米墨戦争終結に伴い、陸軍省開拓地を守るため10箇所の砦の最北端としてこの合流点にフォートワースを設立した[12]。これによりフォートワースは「西部開拓の始まりの場所」として知られている[4]

1848年から1849年、米墨戦争後の西部フロンティアとなるテキサスの開拓者たちを守るため、フォートワース、フォートグラハム、フォートゲイツ、フォートクロガン、フォートマーティンスコット、フォートリンカーン、フォートダンカンの7つの駐屯地が設立された[13]。1849年にテキサス省を指揮していたウィリアム・ジェンキンス・ワース少将は当初10箇所の砦を提案していた。1849年1月、ワースはイーグル・パスからトリニティ川のウェスト・フォークとクリア・フォークの合流まで西部テキサス開拓地の印として10箇所の砦を提案した。1ヶ月後にワースはテキサス南部でコレラにより亡くなった[13]

ウィリアム・S・ハーニー将軍はテキサス省の指揮を引き受け、第2竜騎兵団F隊のリプリー・A・アーノルド少佐にウェスト・フォーク、クリア・フォーク近くに新たな砦の場所を探すよう命じた[13]。1849年6月6日、アーノルド少佐はミドルトン・テイト・ジョンソンの勧めによりトリニティ川岸に野営地を設立し、亡くなったワース少将に敬意を表してキャンプワースと名付けた。1849年8月、アーノルド少佐は野営地をトリニティ川のクリア・フォークの河口を見下ろすことができる北向きの断崖に移動した。1849年11月14日、陸軍省はこの野営地を公式にフォートワースと名付けた[14]

テネシー出身のES・テレルはフォートワース初の住民と主張していた[15]。1年目に洪水となり断崖の上部を現在の郡庁舎の位置に移転した。1853年9月17日、野営地は遺棄され、形跡は残っていない[13]

伝説的なチズム・トレイルの中継地点として、フォートワースはウシの移送の事業により活気づき、賑やかな街となった。何百万頭のウシがこのトレイルを通り、北の市場に移送された。フォートワースは「キャトル・ドライヴ」(牛の移送)の中心地、のちに酪農の中心地となった。これによりフォートワースは「カウタウン」(牛の街)と呼ばれるようになった[16]

南北戦争の間、フォートワースは資金、食料、生活用品の不足に窮していた。人口は175人まで減少したが、リコンストラクションの間に持ち直し始めた。1872年までにジェイコブ・サミュエルズ、ウィリアム・ジェシー・ボーズ、ウィリアム・ヘンリー・デイヴィスが雑貨屋を開業した。翌年、クレバー・M・ヴァン・ザントはティボール・ヴァン・ザント&カンパニーを創立し、1884年にフォートワース国立銀行となった。

1875年、「ダラス・ヘラルド」紙に元弁護士ロバート・E・コワートが、1873年の経済危機および厳冬によるフォートワースの人口減少により酪農業が莫大な損害を受けたという記事を執筆した。フォートワースの30マイル (48 km)外側の線路の設置の中止による減退に加え、コワートはフォートワースの成長があまりに遅く、裁判所近くの路上にパンサーが寝ているのを見たと語った。侮辱を意図したものであったが、1876年に経済が回復すると「パンサー・シティ」という名が受け入れられた[17]。多くの企業や組織が「パンサー」という言葉をその名に使用し続けている。フォートワース市警(英語版)のバッジの上部にパンサーがあしらわれている[18]。「パンサー・シティ」の言葉はトリニティ川のパンサー島、フラットアイアンビルディング (テキサス州フォートワース)(英語版)、フォートワース駅、市内の複数の「眠りパンサー」像などに表現されている。1876年のフォートワースのリトグラフ1888年、フォートワースを中心とする路線図

1876年、テキサス&パシフィック鉄道がようやくフォートワースに開通すると好景気となり、家畜飼育場フォートワース・ストックヤードをウシの卸売市場の主要中心地に変遷させた[19]。 戦争により壊滅的に荒廃した南部からの移住者の人口が増加し続け、小規模な町工場や製粉所は規模を大きくした。交通網の発展により地域市場を提供し、「Queen City of the Prairies」と呼ばれるようになった[20]

フォートワースは鉄道線路の最西端の終点となり、ウシの出荷の乗り継ぎ地点となった。マサチューセッツ州ボストンを拠点とする実業家でフォートワース・ストックヤードの大株主であるルヴィル・ナイルズは当時最大となる精肉会社アーマー社とスウィフト社を誘致した[21]

好景気となり、様々なエンタテイメントが始まり、これに関わる問題も起きた。フォートワースの牧畜業の労働者たちは浪費をするようになった。カウボーイたちはフォートワースからカンザス北部へ向かうチズム・トレイルでの長旅の前に娯楽を満喫した。彼らは地元店から食料を買いだめして、ギャンブルや酒盛りのために酒場を訪れ、ウシを連れて北へ向かい、また狂乱のためだけに帰ってくる。すぐにチズム・トレイルの北の終点ドッジシティの南部に多数の酒場、ダンスホール、娼館が集まるヘルズ・ハーフ・エイカー(またはザ・エイカー)ができ、フォートワースは「Paris of the Plains」(平原のパリ)と呼ばれるようになった[22][23]

街には一般の市民が立ち入ることができない場所があった。毎晩、銃撃、刺殺、強盗、乱闘が発生していた。カウボーイたちはバッファロー狩猟者、ガンマン、探検家、詐欺師など多様な人々の寄せ集めであった。ヘルズ・ハーフ・エイカーは人口の増加に伴って拡大していった。ヘルズ・ハーフ・エイカーは1876年にできた3つの行政区に因み「the bloody Third Ward」(血まみれの3区)と呼ばれることもあった。1900年までにヘルズ・ハーフ・エイカーは南北に通じる市の主要道のうち4本が走るようになった[24]。1876年、地元市民は治安を懸念し、ティモシー・アイザイア・ロングヘア―・ジム・カートライトをこれらを管理する権限を持つ保安官に選出した。

カートライトは土曜の一晩で30人を投獄することもあったが、街の経済を潤すためギャンブルは容認していた。サム・バスのギャング団のような列車や駅馬車強盗がアジトとしていることを知り、カートライトは処罰を厳しくしたが、複数の実業家は地域の制約が多すぎて合法な事業にも悪い影響が出るとして反対を表明した。徐々にカウボーイたちはこの地域を避け始め、事業も損害を受け、市も解決を図った。1879年、カートライトは解任された[24]

HSブロイルズのような市長やBBパドックのような新聞記者の撲滅運動に関わらず、ヘルズ・ハーフ・エイカーは違法ではあるが市に利益をもたらし、観光客にも人気であったため存続し続けた。長年のフォートワースの住民は評判ほど荒れていないと主張していたが、1880年代、フォートワースはバット・マスターソンドク・ホリデイワイアット・アープ、モーガン・アープ、ヴァージル・アープらにより「ギャンブラーズ・サーキット」として定番の立ち寄り先となっていた[24]。この頃、アープ兄弟の長男ジェイムズ・アープは妻と共にフォートワースのヘルズ・ハーフ・エイカーの端の9番通りとカルホーン通りの交差点の辺りに居住しており、アップタウンの酒場キャトルメンズ・エクスチェンジを度々訪れていた[25]

改革を目指す市民は、男性客が主な酒場やギャンブル場と違い、男女が大勢集まるダンスホールを問題視していた。

1880年代後半、ブロイルズ市長やRLカーロック郡検事は改革キャンペーンを開始した。1887年2月8日に公の場で銃撃が起き、メイン通りでジム・カートライトが「"King of Fort Worth Gamblers"」(フォートワースのギャンブル王)を自称するルーク・ショートに射殺された[24]。ショートが殺人で収監されると、カートライトの人気によりショートへの報復リンチの噂が流れた。ショートの親友バット・マスターソンが武装してショートの独房前で夜通し守った。

1889年、テキサス初の禁酒令がフォートワースで行なわれ、多様な企業や人口が増えた。黒人の住民が流入したが、州の人種差別政策によりビジネス街や高級住宅街から締め出され、南部に居住した。ヘルズ・ハーフ・エイカーの人気と収益性は下降し、路上にホームレスが増えた。1900年までにほとんどのダンスホールやギャンブル場がなくなり、安っぽいショーや売春が主な娯楽となった。複数の進歩的政治家は革新主義時代のより広い改革方法の一部として「悪」を積極的に探し出して滅ぼすようになった[24]1916年、フォートワースのテキサス&パシフィック鉄道の操車場1921年、フォートワースのビジネス地区の絵葉書1909年頃、フォートワースのテキサス&パシフィック旅客駅の絵葉書

1911年、J・フランク・ノリス牧師は「バプティスト・スタンダード」紙で競馬賭博に反対して攻撃し始め、フォートワースのファースト・バプティスト教会の説教壇で「悪」や売春を非難した。ノリスがフォートワースの実業家たちとヘルズ・ハーフ・エイカーの土地を結びつけ始め、説教壇からその名を発表し、騒動は激化した。1912年2月4日の夜、ノリスと敵対する者が油を浸して火をつけたぼろ切れの束をノリスの教会のポーチに投げ込んだが、火は消し止められ、被害は最小限に食い止めた。1ヶ月後、放火犯牧師館を焼失させた。1ヶ月に亘る裁判にて、ノリスはこの2回の火災に関わる偽証の罪と放火罪で告訴された。ノリスは放免されたが、1917年までヘルズ・ハーフ・エイカーへの攻撃を細々と続けた。


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