都市を拠点としてフォークソングを歌い始めたのは、アルマナック・シンガーズであった。このグループは、1930年代後期から1940年代初期にかけて、ガスリー、シーガー、リー・ヘイズ他、メンバーを替えつつ活動した。第二次世界大戦下を経て1947年に、シーガーとヘイズは、ロニー・ギルバート、フレッド・ヘルマンと組み、ウィーヴァーズを結成する。ウィーヴァーズは、レッドベリーの「アイリーン」をカバーし大ヒットさせ、この分野は一般大衆の間に広がっていった。文学で1950年代に隆盛をきわめたビート・ジェネレーションは、ジャズと密接な関係を持つ一方、ボブ・ディランらその後のフォーク・シンガー達に大きな影響をもたらした。
彼らは1950年代初期の赤狩りに巻きこまれ、1955年、ピート・シーガーは下院非米活動委員会で、彼の思想的な所属を証言することを拒否したことで、有罪判決を受けた[5]。シーガーらのサウンド、および民俗音楽や社会問題を題材とした楽曲は、キングストン・トリオ、チャド・ミッチェル・トリオや、ピーター・ポール&マリー、モダン・フォーク・カルテットなどに影響を与えた。彼らの歌詞や音楽性は、プロテスト・フォークやブロードサイド・バラッド(時事問題を扱う社会性の強い歌)の発展に大きく寄与した。1963年のワシントン大行進には、ボブ・ディランや俳優マーロン・ブランドらが参加している。
ブリティッシュ・インヴェイジョンの現象は、フォーク・ロック誕生の直接的な要因となった。ビートルズやローリング・ストーンズ、その他のバンドが、ロックには創造的な媒体として可能性があることをアメリカのミュージシャンに改めて認識させた。 アメリカ合衆国で最もフォークロックが活動的であったのは1960年代中頃から1970年代中頃だった。これはヒッピー[注釈 2]現象とほぼ時を同じくする。ボブ・ディランやそれ以前のウディ・ガスリーらのミュージシャンのフォークソング、フォーク・リヴァイヴァルにおけるボーカル・グループ、ロックなどの要素が融合され、さらにハンク・ウィリアムズらの古いカントリーからの影響も見られるようになった。 また、ママス&パパスやスコット・マッケンジー、ジェファーソン・エアプレインらもヒットを放った。1970年代にはジャクソン・ブラウン、ブルース・スプリングスティーンら、80年代にはスザンヌ・ヴェガ、トレイシー・チャップマンら、90年代以降には4ノン・ブロンズ、シックスペンス・ノン・ザ・リッチャーらが活躍した。 ボブ・ディランらを刺激した、アメリカの反体制的な文学ビート・ジェネレーションは、モダン・ジャズを愛好し、イギリスのモッズ文化誕生のきっかけの一つにもなった。戦後世代のイギリスの若者の間でのフォークやロック、ブルース、ブルース・ロックのブームが、1960年代に到来した。 ビートルズやローリング・ストーンズらを中心としたブリティッシュ・インヴェイジョンは、アメリカ、イギリスのフォーク・ロックの隆盛に、大きな影響を与えた[6]。フォーク・ミュージシャンによる取り組みでは、ドノヴァンが1965年デビュー、1966年(イギリス発売は1967年)ドノヴァンはアルバム「サンシャイン・スーパーマン」を発表。この年からプロデュースを担当するミッキー・モストが初期サイケデリック・ロックの影響をここに持ち込みアレンジに工夫を凝らした。 1968年ペンタングル結成。フォークソロ歌手ジャッキー・マクシーとそのギタリストバート・ヤンシュ、ジョン・レンボーンに、ドラムスとウッド・ベースはジャズ奏者で、アコースティック楽器を電気増幅で音量を大きくした、ジャズ色のあるアレンジでトラディショナル・ブリティッシュ・フォークやオリジナルを演奏した[7]。1962年創業でフォーク作品中心に販売していたトランスアトランティック・レコード(en 1967年デビューのフェアポート・コンヴェンションはイギリス独自のフォーク・ロックを提示した。1970年スティーライ・スパンは、フェアポート・コンヴェンションを脱退したアシュリー・ハッチングスが結成した。ギター奏者マーティン・カーシーが参加。アルバム『テン・マン・モップ、あるいはレザヴォア・バトラー氏捲土重来』発表後、ハッチングスとカーシーは脱退、スティーライ・スパンはマディ・プライヤーを中心にドラムス担当を加入させトラディショナル・フォークをロック寄りにしたフォークロックを展開した。 マーティン・カーシーは再び伝承民謡でソロ活動の基本に戻り、平行してアシュリー・ハッチングスらのセッションやブラス・モンキー スウェーデンではガルバナ、ジェゼベル、ビョルン&ベニーなどが活躍した[8]。フランスのフォークロックではTri Yannらが活動した。アイルランドでは、ヴァン・モリソン[注釈 3]とゼム[注釈 4]が活躍した。後年、ザ・ポーグスらがアイルランド民謡とパンク・ロックを結び合わせた。 ドイツのフォーク・ロックには、オライリー・バンド、ダルタニアンらがいた。ノルウェーでは、ゴーテが、ノルウェーの伝承文学のひとつであるスティーヴ(stev、即興詩)とロックの融合が試みられた。東欧のルーマニアでは、1962年に結成されたトランシルヴァニア・フェニックス 1960年代後半、GS時代のカバーとしては「今日を生きよう」をカバーしたテテンプターズ[9]、PPMの「500マイル」をカバーしたザ・スパイダース、 フォーク・サイドでは、「ベリー・ラスト・デイ」(PPM)のトワ・エ・モワ、ママス&パパス「夢のカリフォルニア」のモダン・フォーク・フェローズなどがあげられる。アメリカのバーズ、ラヴィン・スプーンフルなどを経てカバー/コピーから吸収し、日本の民謡(フォーク)を取り入れた寺内タケシとバニーズ、などのバンドやフォーク・グループが登場し、マイク眞木「バラが咲いた」の作詞・作曲を浜口庫之助が担当。村井邦彦[注釈 5]、いずみたくらが新しい日本のポップス・ロック音楽を模索していた。 1969年11月村井邦彦が日本コロムビアとの契約から発足、村井は先行して1967年作曲家業を開始、作詞家山上路夫、安井かずみなどと共作し、様々なバンドやミュージシャンのプロデュースと編曲家を務めている。アルファ初期には赤い鳥、ガロ[注釈 6]などが在籍、他社東芝音工に村井と山上が楽曲提供したトワ・エ・モワなど カレッジ・フォーク系[注釈 7]とも呼ぶミュージシャンたちと制作作業を行った。
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日本のフォークロック