フォークランド紛争
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4月1日深夜よりアルゼンチン軍によるフォークランド諸島侵攻[4]、また4月3日にはサウスジョージア侵攻が行われた[5]。これに対し、イギリス軍は反攻のための部隊を派遣し、フォークランド諸島近海では激しい海空戦が行われた。アルゼンチン空軍エグゾセ空対艦ミサイル航空爆弾による対艦攻撃でイギリス艦船を次々と撃沈したものの、本土から遠いために超音速機が本来の性能を発揮することができず、またイギリス空軍が長距離爆撃機による空爆(ブラック・バック作戦)を行うと最有力の戦闘機部隊は本土に拘置せざるを得なくなり、航空優勢をほぼ失う結果となった[6]。またアルゼンチン海軍も、最有力の大型水上戦闘艦「ヘネラル・ベルグラノ」が撃沈されると現存艦隊主義に転じて、二度と出撃してくることはなかった[7]。イギリスは、アメリカの偵察衛星からの情報によって側面支援を受けたほか[2]北大西洋条約機構(NATO)諸国、欧州共同体(EC)加盟国、さらにアルゼンチンと対立関係にあるチリの支援を受けて、情報戦も有利に進めた。

イギリス軍は経験豊富な特殊空挺部隊特殊舟艇部隊によるコマンド作戦を経て、まず4月25日にはサウスジョージア島にイギリス軍が上陸し、奪還した(パラケット作戦)。続いて6月7日にはフォークランド諸島にも地上部隊を上陸させ、6月14日にはアルゼンチン軍が正式に降伏して戦闘は終結した。

フォークランド紛争当時、アルゼンチンは軍事政権国家再編成プロセス)であったが、この敗北により軍事政権への国民の不満が爆発し、大統領を務めていたレオポルド・ガルチェリ陸軍総司令官は辞任を余儀なくされた。ガルチェリの後任のレイナルド・ビニョーネも国民の不満を抑えきれずに1983年10月に選挙を実施し、ラウル・アルフォンシンが大統領に当選して民政移管が行われた。

フォークランド紛争は第二次世界大戦以降では初めて大規模な海空戦を伴った、西側諸国製の兵器を装備した近代化された軍隊同士による戦争であり、その後の軍事技術に様々な影響を及ぼした。両軍で使用された兵器のほとんどは、その時点まで実戦を経験していなかったものの、同紛争で定量的な評価を受けた。また、アルゼンチンはイギリスから一部の兵器を輸入していた上、両軍ともアメリカ合衆国やフランスベルギーなどの兵器体系を多数使用しており、同一の兵器を使用した軍隊同士の戦闘という特徴もあった。

両国の国交が再開されて戦争状態が正式に終結したのは1990年2月5日だった。それ以降もアルゼンチンはフォークランド諸島の領有権を主張している。アルゼンチン外務省は2023年3月2日、カフィエロ外相がG20外相会合が開かれたインドニューデリーでイギリスのクレバリー外相と同日会談し、領有権交渉の再開を提案したと発表した[8]
名称について

日本語では「紛争」と呼ばれ、法的には戦争ではないとしているイギリスの政府機関も「Falklands Conflict(フォークランド紛争)」の語を用いている[9]。激しい陸戦のほか第二次世界大戦以来となる大規模な海空戦闘が行われ、世界的には戦争と見なされることが多い。英語圏でも、イギリス政府系ではない刊行物などでは「Falklands War(フォークランド戦争)」または「Falkland Islands War(フォークランド諸島戦争)」と呼ばれる[10]

アルゼンチンを含むスペイン語圏では諸島のアルゼンチン名を用いて「Guerra de las Malvinas (マルビナス戦争)」と呼ばれる。
フォークランド問題の起源
フォークランド諸島の発見とイギリスの実効支配

最初にフォークランド諸島を発見したのはフエゴ島の先住民ヤーガン族ともいわれる。大航海時代におけるヨーロッパ人による発見についても諸説あり、1520年ポルトガルマゼラン船団のエステバン・ゴメス船によるとも、あるいは1592年のイギリスの探検家ジョン・デイヴィスによるともされている。アルゼンチン政府は前者を、イギリス政府は後者を採っている[11]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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