1990年、高校卒業と同時に上京。東京都品川区西小山のアパートに住み、アルバイトをしながら毎週のホリプロネタ見せ勉強会に参加するようになる。ネタ見せの開始当初はコントと漫才をやっており、漫才をする際には「前みつ」(まえみつ)という名義を使っていたが、同年7月には正式にコンビ名が「フォークダンスDE成子坂」となる。
1991年3月、事務所ライブ『ホリプロお笑いライブ』にて初舞台。1992年11月、『演芸ひろば』にてテレビ初出演。
1993年、『第14回高田文夫争奪杯OWARAIゴールドラッシュ』で優勝。
1994年、『GAHAHAキング 爆笑王決定戦』で2代目チャンピオンになる。また、同年より『ボキャブラ天国』シリーズにレギュラー出演。
1998年、単独イベント『自縛』を開催。約9ヵ月で5回、全10公演。「全コントが新作、または旧作のリメイク」というハードな条件だった。当時お笑いのVHS作品は販売のみが主流だったが、この『自縛』に関しては、TSUTAYAとの提携でレンタルコーナーに置かれた(未DVD化)。
しかし、その功績を生み出してくれたマネージャーが『自縛』の途中で新人に切り替えられる形で担当を離れたことによって事務所側への不満が生じ、桶田は『自縛』を最後までやり抜いたら引退しようと決意した。
1999年12月、解散を発表。末日をもって解散となり、共に所属事務所を退社。なお、解散の約半年前に『爆笑オンエアバトル』に1度だけ出場(1999年5月1日放送回)、オンエアを勝ち取っている(453KB・3位)。 桶田は兼ねてからお笑いと並行で活動していたロックバンド『The 3cm?』を本格的に始動し、計3枚のアルバムをリリース。その後、2004年よりかつての同僚からの後押しも機に放送作家・構成作家として、バラエティ番組を中心にテレビ・イベント・舞台・CMなどの企画・構成を手掛けるようになる。その一環として、2005年12月にはますだおかだのイベントに裏方として参加したほか、2006年4月・11月開催のますだおかだのライブ構成や、2007年には『ますおかの完パケましょう』に放送作家として携わった[10]。また、2007年4月には三原じゅん子の歌手活動再開ライブのプロデューサーを担当。 村田はピン芸人として再出発。その傍らで2000年代初頭にコトブキツカサ(元ピテカンバブー)と共に月一で路上トークライブを開催し、また2000年10月には村田・かわのをとや(元シューティング)・西田征史(元ピテカンバブー)による演劇ユニット『鼻ギター』を結成し、2001年10月に初公演となる『鰯雲』を上演[11][12]。フリーランス・オフィス★怪人社(業務提携)[13]・ホリプロコムでの活動を経てSMA NEET Projectへ移籍し、2005年5月に松丘慎吾(元坂道コロンブス)とコンビ『鼻エンジン』を結成。そのおよそ半年後、同年のM-1グランプリにて準決勝進出を果たす。 しかしその矢先、2006年11月11日に村田がクモ膜下出血で急逝(35歳没)。村田はその翌日の11月12日、自宅でうつ伏せになり既に息を引き取った状態でマンションの管理人らによって発見されたという[14]。桶田や当時の相方であった松丘をはじめとした多くの芸人や放送作家がその死を惜しみ、関係者らによる追悼記事が次々と寄せられた[15][16]。 2007年1月8日、恵比寿アートカフェ1107にて『芸人・村田渚を偲ぶ会』が執り行われ、その時の様子は雑誌「グローバルヴィジョン」2007年3月号にて掲載された。また、2007年4月3日には『とくダネ!』のコーナー「温故知人」にて、村田の母親や相方の松丘やホリプロ時代に深く親交があった三村マサカズ(さまぁ?ず)らのインタビューによって構成された村田の追悼企画が放送された。 2016年12月より、桶田が自身のブログにてPodcast配信『自吐』を開始[17]。2018年10月までの約2年に渡り「周りの印象的には上昇期での”突然な水面下での解散”となっている変な名前のコンビ名、フォークダンスDE成子坂というお笑いコンビが解散に至った経緯」を語り尽した。 2018年6月20日、『ザ・発言X』にて村田に纏わる特集が放送され、同年11月11日には『村田渚13回忌LIVE』がBeach Vにて開催された[18][19]。 2020年2月23日、桶田が2019年11月23日に病により死去していた事が株式会社MR(当時、桶田が取締役を務めていた会社)の公式ホームページにて公表された(48歳没)[20][21]。病名は公式では現在も非公表とされているが、浦口直樹(元TBSテレビアナウンサー)によると村田の没後に大腸癌を患っており一度は完治していたものの2017年頃に再発していた事が明かされている[22]。 2021年12月22日、『お笑い実力刃』にて「伝説の芸人 フォークダンスDE成子坂SP」が放送され、当時の貴重なエピソードやコント映像が披露された[23][24]。
解散後
逸話
フォークダンスDE成子坂という名前は、所属事務所ホリプロの当時の社員がロバート・デ・ニーロから取ったコンビ名にしようと試行錯誤した末、「DE(デ)」だけが残ったと言われている。しかし、実際には当時同事務所に所属していたアリtoキリギリスと同様に半ばダジャレ染みており、後に桶田が「その場の思い付きで名付けられたものだった」と自身のポッドキャスト内で語っている。本人達はこの名前を気に入っておらず改名しようと思っていたが、デビューから間もなくしてテレビで名前が売れてしまった事から変更できなかった。
1993年に放送されたとぶくすりの開始前、村田は番組のMCを依頼されていた。しかし、相方の桶田には声が掛からず個人としての出演オファーであった事からその誘いを断っている[25]。
高田文夫は早くから成子坂の才能を評価しており、桶田の没後に「成子坂といっても(今の時代)知らない人がほとんどだろうが、私が大好きなコント(をするコンビ)だった」と自身が連載するエッセイで綴った[26]。また、太田光(爆笑問題)は高田が度々「これからは桶田が天下を取る」と口にしていた場面を記憶しており、太田自身はかつて「あいつは天才すぎて売れなかった」と桶田を評した事があった[7][27]。