フォークダンスDE成子坂
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

島根定義(元ツインカム)は、2000年代に村田と共にシアターD主催の月一開催お笑いライブ「なりあがり」のMCを担当するなど晩年にかけ交流が深く、鼻エンジンを結成する前の村田に一度だけコンビ結成の話を持ち掛けられた事があった[48]。また、後藤秀樹(元シェイクダウン)は当時ピンで活動していた村田に全く面識が無い状態でありながらコンビ結成の話を持ち掛けに大阪から東京へ足を運び、2001年に一度baseよしもとを舞台に合同ライブを行っている[49][50][51]。しかし色々と事情が重なり、結果として双方共にコンビ結成には至らなかった。

松田大輔東京ダイナマイト)は、成子坂が自身にとって「僕が初めて会話したお笑い芸人。その言葉を肌で感じて、その一挙手一投足を片時も目を離さず憧れ続けた芸人」であった事を明かしている[52]。高校時代に素人として「M&M」というコンビで電波結社バババ団に出演し成子坂と合同コントや自主ライブを行っていた事があり、東京ダイナマイトの単独ライブでは成子坂のコント「刑務所」をカバーネタとして披露した事がある。また、桶田が自身の過去を振り返るPodcast企画『自吐』に松田はレギュラーゲストとして参加している。

コトブキツカサ(元ピテカンバブー)はホリプロ時代の直属の後輩であり、自身の芸名は成子坂のネタの中で登場する名前から拝借している。「僕が(ホリプロに)入った当時、すでに成子坂はお笑いシーンで頭ひとつ抜けた雲の上の存在だった。でも多くの先輩方の中でも若手の楽屋に遊びに来てくれたり、後輩たちが行けないような飲み会に誘ってくれたり、いつも僕の話を否定せず肯定してくれるこちらに歩み寄って来てくれる人だった」と振り返り、村田とは2000年代初頭に月一で路上トークライブを行うなど晩年にかけ交流が深かった。2010年代後半から2020年代初頭にかけ、水道橋博士(元浅草キッド)が編集長を務めるWebマガジン「水道橋博士のメルマ旬報」にて『マン・オン・ザ・ムーン ?僕と村田渚の物語?』を連載し、自身の当時の貴重な記憶を記している[53]。また、自宅で急逝していた村田の第一発見者であり、その時の表情は「本当に穏やかだった」と明かしている[54][55][56]

ラーメンズは、学生時代の活動初期にバカルディやフォークダンスDE成子坂が好きで台本を書き起こしコントをコピーしていた事がある[57][58]。また、秋山竜次馬場裕之ロバート)がNSC在学時に勉強として『自縛』のVHSを見た際に山本博(ロバート)が当時別の相方と組んでいたコンビが養成所のネタ見せで披露していたネタが自縛に影響を受けた謂わばほぼパクリであった事をかつて笑い話として振り返り[59]砂川禎一郎夜ふかしの会)は中学時代にボキャブラブームで出会った成子坂がお笑いに夢中になるきっかけとなり[60]、高佐一慈(THE GEESE)は高校時代に当時好きだった爆笑問題・成子坂・海砂利水魚を頭の中でイメージしながら趣味でネタを作っていた事を明かし[61]岡田康太(元なかよしビクトリーズ)はコンビ時代にホリプロコム所属となったのは以前から村田のツッコミに憧れていた事が影響しており[62]岐部昌幸放送作家)は学生時代に見た自縛のVHSに衝撃を受けお笑いの世界に携わりたいと思い立ったのが作家を目指す動機となった事を公言するなど[63]、後に芸人や作家を志す事となった世代に広く影響を与えている。

サンドウィッチマンは、ホリプロに預かりで所属していた頃に手伝いとして単独ライブ『自縛』に携わり、立ち見で公演を観ていた。伊達みきおは桶田の没後に「偉大な先輩。めちゃくちゃ面白くて、めちゃくちゃ人気もあって、めちゃくちゃ格好良かった。若手時代、生であの衝撃的に面白いライブを観る事が出来たのは我々の糧になっている」と敬意を表し、また2005年M-1グランプリ敗者復活戦に鼻エンジンとして出場していた村田と喫煙所で会った際「『サンドウィッチマンおもろなったなぁ、近々決勝行くんちゃう?』と声を掛けて貰った時は凄く励みになった」といった事を自身のブログで記している(その後、2007年のM-1グランプリで敗者復活枠として決勝に勝ち上がり優勝を飾った)[5][64]

小峠英二バイきんぐ)は、晩年の村田と接する機会が多かった。村田の没後、自身のブログで「初めて事務所のネタ見せで(鼻エンジンを)見た時、衝撃を受けた。あの人に面白いと認められたかった。俺はあの人に夢中やった」と記している。また「村田渚という芸人に出会えて、本当に良かった。これからはあの人に教えてもらったことを心に。そして少しでもあの人に近づけるよう、もっともっとやらんと。好きくらいじゃアカンわ。狂わんと」と決意を固めるきっかけとなり、その後2012年キングオブコントで優勝を飾った[65][66]

たきうえ(流れ星☆)は、成子坂の二人から「たぎゅう」と呼ばれ可愛がられていた。自身が名前を尋ねられた際、緊張から早口になり「田牛」と聞き間違えられた事に由来している。また、若手時代に桶田の家に居候していた事があり、自身が初めて芸人として人前に立たせて貰えたのは桶田が当時活動していたバンド「The 3cm?」の前説だった[67][68]

ホロッコは当初ホリプロに預かりで所属し別々で活動していたが、『自縛』にて披露された集団コント「チューリップ商事」の稽古に参加した事をきっかけに出会い、交際・コンビ結成・入籍している[69]

児島気奈K-PRO代表)は、ライブを立ち上げて間もない頃から出演してくれた村田との出会いを機に大きな心境の変化を受けたという。飲みに行く機会があった際にはまるで自身のお笑いへかける思いを測るように居酒屋大喜利を6時間ほどさせられたり、時には「あの日のメンバーなら500人は集客できる」「今で満足しちゃダメなの、ちゃんと分かってるよね?」「俺らが好きでそんなにお金使ってたなら、今度は俺らを使ってお金を稼がないと」と厳しくも頼りになるアドバイスを受けて行く中で、それまでは趣味の延長であったライブの主催をビジネスとして成立させたいと思うようになった事を明かしている[70]

桶田は晩年、自らの死で成子坂が悲劇のコンビとして扱われてしまう事を嫌がり妻に「死んだ事は5年後に公開して欲しい」と遺言を残していたが、最終的に親交のあった近しい関係者にのみ公表される事となった。その影響からか公式発表の約1ヶ月前、有吉弘行(元猿岩石)が自身のラジオ番組内で安田和博デンジャラス)と共に桶田の訃報に触れる場面があった[71][72]

村田が鼻エンジンとしてSMA NEET Projectに在籍していた頃、同じく在籍していた酒井健太アルコ&ピース)が当時組んでいたトリオ「ホトトギス」のネタを見てその場に居合わせていた平子祐希(アルコ&ピース)に「天才やん、こいつ」と話しかけた事があり、酒井は自身のコラムで「渚さん。あなたの一言でまだ俺お笑いやれてます」と当時の心境を振り返った事がある。また、桶田も生前自身のTwitterアカウントで「良い『間』持ってるね(二人とも)」と彼らを評した事があった[73][74][75][76][77]
次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:103 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef