フォークダンスDE成子坂
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

しかし、以前から佐野の大ファンであった田中裕二は公演中の口調を見てすぐさまその佐野が偽物である事を見抜いていた[28][29][30][31]

三村マサカズ(さまぁ?ず)はホリプロ時代の直属の先輩であり、村田とは互いに切磋琢磨し合う関係だった。2021年10月27日放送のお笑い実力刃にゲスト出演した際に村田のツッコミを参考にしていた事を明かしており、当時の関東ではツッコミの文化が関西ほど根付いておらず、東京育ちの三村にとって三重育ち(出生は大阪府)の村田の関西弁が新鮮だった事も影響していたという[32]。また、村田の没後に「後輩であり、ライバル」「俺はいつもお前にダメ出しされて、俺もお前をダメ出しする。弟かな」と度々メディアで振り返っている[6][33]

伊集院光は、同じくホリプロ時代の直属の先輩であった。2021年12月22日放送のお笑い実力刃に出演した際に「桶田君が全く熱量を上げない。クールなまま。勝負ワードとか勝負ボケみたいなものでも、平熱のままやる。逆に村田君は凄く大きくツッコんで行ったり一旦流したりして、どれくらいの笑いが欲しいかを調整している」と成子坂のコントを分析し、続けて「(彼らの)そういったところを若手離れしているなと思って見ていた」と当時を振り返った[4][34]

萩原正人(元キリングセンス)は、桶田に自身の移植体験に関する講演会の構成を担当して貰ったり一緒に江の島釣りに出掛けたりするなど、双方のコンビを解消してから交流する機会が増えていった[35]。また、生前の桶田と釣りに行った出来事をモデルに小説『鯖がぐうと鳴いた』を執筆し、2012年に第8回新潮エンターテインメント大賞の最終候補作4篇にノミネートされている[36][37][38][39]

千原せいじ千原兄弟)は、大阪吉本時代にお笑いダンクシュートで成子坂と共演した際、既に東京でブレイクしていた成子坂が自分たちの約7倍もギャラを貰っている事を聞いて愕然としてしまい、当時ミナミに建つ家賃6万3千円のマンション竹若元博バッファロー吾郎)と住んでいた自身は一刻も早く東京進出したいと思ったという[40][41][42]

くりぃむしちゅーは、成子坂が取り上げられた2018年6月20日放送のザ・発言Xに出演した際、上田晋也は「僕ら世代のトップランナーだったし、センセーショナルだった」と語り、有田哲平は「笑いに飢えているっていうか。24時間笑いのことを考えてないといけないんだなって、凄く学ばせてもらった」とそれぞれ振り返った[6]。また、有田が2021年12月22日放送のお笑い実力刃に出演した際には「桶田君なんて二枚目だし(成子坂は)凄くアイドル的な人気があった」「僕らの世代(の芸人)って斜に構えて尖ってる時代で、噂を耳にしても『はいはい、ワーキャーの芸人かい、どうぞどうぞ一瞬で消えるんでしょ?』みたいな感じでいたんだけどネタを何本か見ていくうちに全部面白くて、最初は『作家さんが書いたのかな?』と思った」と冗談を交えつつ当時を振り返っている[43]

土田晃之(元U-turn)は、桶田の没後に自身のラジオ番組で「GAHAHAキングの収録に向かう際、当時の海砂利水魚ネプチューンたちが地下鉄で通う中で桶田さんはジープに乗っていた」「一番最初に『この人、芸能人なんだな』と感じさせてくれた人」と振り返り、また「センスが凄かった。当時ドラえもんのコントをやる機会があって、自分たちを含めて全身ドラえもんの格好をしてネタを演じる芸人が多い中、成子坂はスカジャンなどのオシャレな服を着て頭に青いタオルを巻くだけで表現していた」と、当時の先進性を評した[44]

古坂大魔王(元底ぬけAIR-LINE)は、2021年12月22日放送のお笑い実力刃に出演した際に「桶田さんは自分がしたいことをしたくてお笑いをやってる」「練習でやったものもその日には飽きてる。だからコントとかで先に渚さん一人に前フリさせておいて、桶田さんが舞台袖から出て来ないままネタが終わった事もあった。渚さんに『はよ来いや!』『何しとんねん!』って言われても桶田さんはずっと裏で笑ってる」と当時の様子を語り、続けて「自分がやりたいことをやって、それを渚さんが笑いに変えてくれる。渚さんがいれば何やってもOKという安心感がそこにあった」と振り返った[4][28]

ますだおかだは、GAHAHAキングでの共演を機に若手時代から親交があった。2013年5月6日放送の絶対笑者にコンビで出演した際に当時ライバルとして意識していた芸人にフォークダンスDE成子坂を挙げており、増田英彦は村田の没後に自身のブログで「成子坂のコントはホンマに面白かった。本番前に彼らのコントのリハーサルを客席で見ながら『俺らは漫才師で良かった。コントやってたら勝たれへんかったなぁ』と思った風景、そしてその時に彼らがどんなセットでどんなコントをしていたかを今でもハッキリ覚えている」と振り返っている[45][46]。また、増田はコンビを解散して一線を退いていた桶田に声を掛け、自身のコンビの単独ライブの余興(桶田と岡田圭右の2人で作った増田には内緒のリハーサル無しのぶっつけ本番による30分コント)を依頼する形で少しずつお笑いの世界へ引き戻すきっかけを作った[47]

島根定義(元ツインカム)は、2000年代に村田と共にシアターD主催の月一開催お笑いライブ「なりあがり」のMCを担当するなど晩年にかけ交流が深く、鼻エンジンを結成する前の村田に一度だけコンビ結成の話を持ち掛けられた事があった[48]。また、後藤秀樹(元シェイクダウン)は当時ピンで活動していた村田に全く面識が無い状態でありながらコンビ結成の話を持ち掛けに大阪から東京へ足を運び、2001年に一度baseよしもとを舞台に合同ライブを行っている[49][50][51]。しかし色々と事情が重なり、結果として双方共にコンビ結成には至らなかった。

松田大輔東京ダイナマイト)は、成子坂が自身にとって「僕が初めて会話したお笑い芸人。その言葉を肌で感じて、その一挙手一投足を片時も目を離さず憧れ続けた芸人」であった事を明かしている[52]。高校時代に素人として「M&M」というコンビで電波結社バババ団に出演し成子坂と合同コントや自主ライブを行っていた事があり、東京ダイナマイトの単独ライブでは成子坂のコント「刑務所」をカバーネタとして披露した事がある。
次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:103 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef