フォークダンスDE成子坂
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1991年にホリプロのお笑いライブに出て以降、1992年に『新しい波』(『とぶくすり』・『めちゃ×2イケてるッ!』の前身番組)に出演し、1993年11月に『高田文夫のラジオビバリー昼ズ』内にて開催された「第14回高田文夫杯争奪OWARAIゴールドラッシュ」にて優勝[2][3]1994年3月に『GAHAHAキング 爆笑王決定戦』にて2代目チャンピオンとなり(初代は爆笑問題、3代目はますだおかだ)、1994年12月には単発コント特番『成子坂定食』が放送された。当時の若手芸人としては異例のスピードで頭角を現しており、コンビとして雑誌「JUNON」に掲載されるなど女性からの人気も絶大であった[4]

また、後に高視聴率の人気番組となっていった『ボキャブラ天国』シリーズに1994年から1998年にかけて出演。同番組のヒットパレードのコーナーにて、短い文章を長く、長い文章は短く強引にボキャブり、意味のない言葉をオチにするというシュールなネタを得意とした。特に港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカのメロディに乗せたネタは他の芸人とは一線を画し、コーナー黎明期に一世を風靡した。

1998年6月から1999年2月にかけ、新宿シアターモリエールにて単独イベント『自縛』を隔月開催し(足かけ9ヵ月で5回、全10公演)、1999年12月31日をもって解散。デビューから約8年半という短期間の活動であったが、太田光(爆笑問題)に「天才すぎて売れなかった」、上田晋也くりぃむしちゅー)に「僕ら世代のトップランナーだったし、センセーショナルだった」と言わしめ、伊達みきおサンドウィッチマン)から「偉大な先輩。めちゃくちゃ面白くて、めちゃくちゃ人気もあって、めちゃくちゃ格好良かった。若手時代、生であの衝撃的に面白いライブを観る事が出来たのは我々の糧になっている」と敬意を表されるなど、同世代や後進の芸人たちに広く影響を与えている[5][6][7]
来歴

桶田敬太郎が兵庫県、村田渚が大阪府より共に小学生時代の途中で三重県鈴鹿郡関町(現・亀山市)に引っ越し、小学校高学年の頃にとあるソフトボールの試合で二人は出会う。桶田曰く当時の村田は既に身長が167cmあり、剛腕ピッチャーとして名を轟かせていたという[8][9]。その後、共に町立関中学校へ行き同じクラスになった事をきっかけに親しくなり、高校生時代の1989年に村田から声を掛ける形でコンビ結成。高校在学中、ホリプロのネタ見せ勉強会に観客として通い始める。

1990年、高校卒業と同時に上京。東京都品川区西小山のアパートに住み、アルバイトをしながら毎週のホリプロネタ見せ勉強会に参加するようになる。ネタ見せの開始当初はコントと漫才をやっており、漫才をする際には「前みつ」(まえみつ)という名義を使っていたが、同年7月には正式にコンビ名が「フォークダンスDE成子坂」となる。

1991年3月、事務所ライブ『ホリプロお笑いライブ』にて初舞台。1992年11月、『演芸ひろば』にてテレビ初出演。

1993年、『第14回高田文夫争奪杯OWARAIゴールドラッシュ』で優勝。

1994年、『GAHAHAキング 爆笑王決定戦』で2代目チャンピオンになる。また、同年より『ボキャブラ天国』シリーズにレギュラー出演。

1998年、単独イベント『自縛』を開催。約9ヵ月で5回、全10公演。「全コントが新作、または旧作のリメイク」というハードな条件だった。当時お笑いのVHS作品は販売のみが主流だったが、この『自縛』に関しては、TSUTAYAとの提携でレンタルコーナーに置かれた(未DVD化)。

しかし、その功績を生み出してくれたマネージャーが『自縛』の途中で新人に切り替えられる形で担当を離れたことによって事務所側への不満が生じ、桶田は『自縛』を最後までやり抜いたら引退しようと決意した。

1999年12月、解散を発表。末日をもって解散となり、共に所属事務所を退社。なお、解散の約半年前に『爆笑オンエアバトル』に1度だけ出場(1999年5月1日放送回)、オンエアを勝ち取っている(453KB・3位)。
解散後

桶田は兼ねてからお笑いと並行で活動していたロックバンド『The 3cm?』を本格的に始動し、計3枚のアルバムをリリース。その後、2004年よりかつての同僚からの後押しも機に放送作家構成作家として、バラエティ番組を中心にテレビイベント舞台CMなどの企画・構成を手掛けるようになる。その一環として、2005年12月にはますだおかだのイベントに裏方として参加したほか、2006年4月11月開催のますだおかだのライブ構成や、2007年には『ますおかの完パケましょう』に放送作家として携わった[10]。また、2007年4月には三原じゅん子歌手活動再開ライブのプロデューサーを担当。

村田はピン芸人として再出発。その傍らで2000年代初頭にコトブキツカサ(元ピテカンバブー)と共に月一で路上トークライブを開催し、また2000年10月には村田・かわのをとや(元シューティング)・西田征史(元ピテカンバブー)による演劇ユニット『鼻ギター』を結成し、2001年10月に初公演となる『鰯雲』を上演[11][12]フリーランスオフィス★怪人社(業務提携)[13]ホリプロコムでの活動を経てSMA NEET Projectへ移籍し、2005年5月松丘慎吾(元坂道コロンブス)とコンビ『鼻エンジン』を結成。そのおよそ半年後、同年のM-1グランプリにて準決勝進出を果たす。

しかしその矢先、2006年11月11日に村田がクモ膜下出血で急逝(35歳没)。村田はその翌日の11月12日、自宅でうつ伏せになり既に息を引き取った状態でマンションの管理人らによって発見されたという[14]。桶田や当時の相方であった松丘をはじめとした多くの芸人や放送作家がその死を惜しみ、関係者らによる追悼記事が次々と寄せられた[15][16]

2007年1月8日、恵比寿アートカフェ1107にて『芸人・村田渚を偲ぶ会』が執り行われ、その時の様子は雑誌「グローバルヴィジョン」2007年3月号にて掲載された。また、2007年4月3日には『とくダネ!』のコーナー「温故知人」にて、村田の母親や相方の松丘やホリプロ時代に深く親交があった三村マサカズさまぁ?ず)らのインタビューによって構成された村田の追悼企画が放送された。

2016年12月より、桶田が自身のブログにてPodcast配信『自吐』を開始[17]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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