フォークダンスDE成子坂
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フリーランスオフィス★怪人社(業務提携)[13]ホリプロコムでの活動を経てSMA NEET Projectへ移籍し、2005年5月松丘慎吾(元坂道コロンブス)とコンビ『鼻エンジン』を結成。そのおよそ半年後、同年のM-1グランプリにて準決勝進出を果たす。

しかしその矢先、2006年11月11日に村田がクモ膜下出血で急逝(35歳没)。村田はその翌日の11月12日、自宅でうつ伏せになり既に息を引き取った状態でマンションの管理人らによって発見されたという[14]。桶田や当時の相方であった松丘をはじめとした多くの芸人や放送作家がその死を惜しみ、関係者らによる追悼記事が次々と寄せられた[15][16]

2007年1月8日、恵比寿アートカフェ1107にて『芸人・村田渚を偲ぶ会』が執り行われ、その時の様子は雑誌「グローバルヴィジョン」2007年3月号にて掲載された。また、2007年4月3日には『とくダネ!』のコーナー「温故知人」にて、村田の母親や相方の松丘やホリプロ時代に深く親交があった三村マサカズさまぁ?ず)らのインタビューによって構成された村田の追悼企画が放送された。

2016年12月より、桶田が自身のブログにてPodcast配信『自吐』を開始[17]2018年10月までの約2年に渡り「周りの印象的には上昇期での”突然な水面下での解散”となっている変な名前のコンビ名、フォークダンスDE成子坂というお笑いコンビが解散に至った経緯」を語り尽した。

2018年6月20日、『ザ・発言X』にて村田に纏わる特集が放送され、同年11月11日には『村田渚13回忌LIVE』がBeach Vにて開催された[18][19]

2020年2月23日、桶田が2019年11月23日に病により死去していた事が株式会社MR(当時、桶田が取締役を務めていた会社)の公式ホームページにて公表された(48歳没)[20][21]。病名は公式では現在も非公表とされているが、浦口直樹(元TBSテレビアナウンサー)によると村田の没後に大腸癌を患っており一度は完治していたものの2017年頃に再発していた事が明かされている[22]

2021年12月22日、『お笑い実力刃』にて「伝説の芸人 フォークダンスDE成子坂SP」が放送され、当時の貴重なエピソードやコント映像が披露された[23][24]
逸話

フォークダンスDE成子坂という名前は、所属事務所
ホリプロの当時の社員がロバート・デ・ニーロから取ったコンビ名にしようと試行錯誤した末、「DE(デ)」だけが残ったと言われている。しかし、実際には当時同事務所に所属していたアリtoキリギリスと同様に半ばダジャレ染みており、後に桶田が「その場の思い付きで名付けられたものだった」と自身のポッドキャスト内で語っている。本人達はこの名前を気に入っておらず改名しようと思っていたが、デビューから間もなくしてテレビで名前が売れてしまった事から変更できなかった。

1993年に放送されたとぶくすりの開始前、村田は番組のMCを依頼されていた。しかし、相方の桶田には声が掛からず個人としての出演オファーであった事からその誘いを断っている[25]

高田文夫は早くから成子坂の才能を評価しており、桶田の没後に「成子坂といっても(今の時代)知らない人がほとんどだろうが、私が大好きなコント(をするコンビ)だった」と自身が連載するエッセイで綴った[26]。また、太田光爆笑問題)は高田が度々「これからは桶田が天下を取る」と口にしていた場面を記憶しており、太田自身はかつて「あいつは天才すぎて売れなかった」と桶田を評した事があった[7][27]

爆笑問題は、成子坂とは番組やライブで共演する機会が多かった。太田光は「誰も考えないようなこと」「言ってみれば、大竹一樹さまぁ?ず)が出て来た時の只者じゃないっていうあの感じ」と当初から桶田の発想に非凡さを見いだしており、「普段の会話から訳分かんない。ボケてばかりいるから会話しても続かない。だから話さなくなっちゃった」と冗談交じりで当時の様子を振り返っている。また、1995年日本青年館ホールにて行われた若手合同ライブで成子坂と共演した際、太田が桶田に何のネタをやるか尋ねると「佐野元春さんが来てくれる」とだけ聞かされ、その日の楽屋には佐野元春の張り紙が貼られていた。いざ本番を迎えると佐野に似た全くの別人が呼び出され、村田と2人で延々と20分ほどインタビューを続けた末に観客はもちろん共演者にすら最後まで本物かそうでないか言及せず出番を終えた事があったという(実際は演目の最後にSOMEDAYを非常に下手な歌声で披露させネタばらしを仄めかす構成になっていた)。しかし、以前から佐野の大ファンであった田中裕二は公演中の口調を見てすぐさまその佐野が偽物である事を見抜いていた[28][29][30][31]

三村マサカズ(さまぁ?ず)はホリプロ時代の直属の先輩であり、村田とは互いに切磋琢磨し合う関係だった。2021年10月27日放送のお笑い実力刃にゲスト出演した際に村田のツッコミを参考にしていた事を明かしており、当時の関東ではツッコミの文化が関西ほど根付いておらず、東京育ちの三村にとって三重育ち(出生は大阪府)の村田の関西弁が新鮮だった事も影響していたという[32]。また、村田の没後に「後輩であり、ライバル」「俺はいつもお前にダメ出しされて、俺もお前をダメ出しする。弟かな」と度々メディアで振り返っている[6][33]

伊集院光は、同じくホリプロ時代の直属の先輩であった。2021年12月22日放送のお笑い実力刃に出演した際に「桶田君が全く熱量を上げない。クールなまま。勝負ワードとか勝負ボケみたいなものでも、平熱のままやる。逆に村田君は凄く大きくツッコんで行ったり一旦流したりして、どれくらいの笑いが欲しいかを調整している」と成子坂のコントを分析し、続けて「(彼らの)そういったところを若手離れしているなと思って見ていた」と当時を振り返った[4][34]

萩原正人(元キリングセンス)は、桶田に自身の移植体験に関する講演会の構成を担当して貰ったり一緒に江の島釣りに出掛けたりするなど、双方のコンビを解消してから交流する機会が増えていった[35]。また、生前の桶田と釣りに行った出来事をモデルに小説『鯖がぐうと鳴いた』を執筆し、2012年に第8回新潮エンターテインメント大賞の最終候補作4篇にノミネートされている[36][37][38][39]


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