フォークソング
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翌1964年になると民謡ではなく、フォークソングという表記が一般化し[32]、概ね 1965?1966年頃、音楽ジャンル名としての「フォーク」が定着したと見られる[出典 36]。ボブ・ディランのレコードデビューは1962年3月で[20]、ボブ・ディランのシングル盤が日本で発売されたのは、1965年の「サブタレニアン・ホームシック・ブルース」(邦題「ホームシック・ブルース」)が最初で[70]、発売元の日本コロムビアはボブ・ディランに「ウエスタン調ロックにつづる哀愁」とキャッチコピーを付けた[70]。ウエスタンという言葉が使われているのは、この前に日本でカントリー&ウエスタン(C&W)のブームがあったからだった[出典 37]

朝日新聞』1966年4月24日付に「フォークソング大はやり 若者の生活に密着」という見出しの記事が載り[71]、「最近、フォークソングが、若者を中心とする歌好きの人々の間ですごくはやっている。ひところのエレキブームのようなハデな騒がしさはないが、若い人たちによってその魅力はなかなか大きいようだ。フォークソングが日本に入って来たのは3、4年前。アメリカでジャズとは別に、歌手と聴衆が一緒になって歌う新民謡が生まれ、これがフォークソングと呼ばれた。最近は反戦歌など社会性を持ったものが人気を呼んでいる」と書かれている[71]。また『毎日新聞』1966年9月8日付の「寒流」というコラムに「ギター、フォークソングの孤独なブーム」という見出しの記事が載り[72]、「クラシックギターが売れている。業界の話によると、全国で50のメーカーが月産10万台を作っているそうだ(中略)こんなに売れ、演奏者も多いのなら、エレキ騒動やピアノ教室のように社会的な話題になってもよさそうだが、いっこうにそれらしいことを聞かない。ブームが潜行してる。同じようなブームにフォークソングがある。モダン・フォークと呼ばれるもので、素朴なメロディーに乗せて反戦や社会批判を歌ったものだ。アメリカの大学生の間から流行して、日本でも大学生を中心に百組ほどのグループがある。一説によるとフォーク人口は百万人。それなのにこのブームは表面化しない」などと書かれており[72]、1966年9月時点ではフォークソングムーブメントはそこまで大きくなっていないことが分かる。

日本のフォークソングにはアメリカの伝統的な音楽の継承を目的とするフォークリバイバル(英語版)的意味はあまり含まれない[出典 38]。あまりというのは日本のフォークソングを先導した労音は、アメリカのフォークソングの思想を受け容れたものだったが[出典 39]、日本の若者にとってはファッションだったからである[出典 40]。アメリカでは当時はまだ徴兵制が残り[3]、実際に戦場に行かねばならないかも知れない現実に晒されていたアメリカの若者たちとは違い[3]、日本の若者たちにとっては戦争は切実な問題ではなかった[3]
大学生とフォークソング

1960年代初頭にアメリカの学生の間で盛り上がっていたフォークソングブームに飛びついたのが、日本の富裕層の若者、特に東京成城学園青山学院明治学院など、アメリカ的な自由主義の伝統を持つ私立大学に通う大学生だった[出典 41]ブルーカラー的匂いのあったロックンロールとは違って知的な匂いもあり[出典 42]、アコースティックギターの新鮮さ、美しく爽やかなハーモニーに多くの大学生が驚き、われ先にとグループを結成してそのコピーを始めた[出典 43]。それは同じくアメリカからの輸入品であるアイビールックと連鎖していた[出典 44]。アメリカのフォークソングの動きをいち早く日本に紹介したのが、当時の男性向けファッション雑誌MEN'S CLUB』や深夜ラジオだった[4]芝生の植えられたキャンパスで、アイビーファッションに身を包み、ギターを片手にアメリカのモダンフォーク[注釈 2]コピーを歌う[出典 45]。ギター1本あればみんなと一緒に歌うことが出来るのもフォークソングの魅力だった[61]。それまでに日本に入って来た洋楽は、演じる側と聴く側に境界線があったが[79]、フォークソングはその境界線を取り払った音楽だった[47]。それまでの既成の音楽と著しく違っていたのは、歌い手自ら作詞家作曲家になれたことで[47]なぎら健壱は「シンガーソングライター」も実質的にここを始まりとしている」と論じている[47]。自作で曲を作るのはもう少し後の話で[9]、初期のカレッジ・フォークは、エリート意識とアメリカ文化への憧れから、演奏に関しては英語の歌詞で歌うことに徹する原語主義が貫かれていたという[出典 46]。これが60年代の最新トレンドであり、これらはキャンパス・フォーク、カレッジ・フォークなどと呼ばれるようになった[出典 47]日本フィリップス・レコードの元プロデューサーディレクター本城和治は「担当していた森山良子のアルバムに『カレッジフォーク』という言葉を当て嵌めたんですね。『カレッジフォーク』という言葉を使っているのはフィリップスだけ。僕は『キャンパスフォーク』というのは抵抗があった。会社によって『キャンパスフォーク』とか独自の言い方をしていましたね」などと述べているが[81]、森山のレコードデビューは1967年1月25日リリースのシングルこの広い野原いっぱい」が最初で、「カレッジ・フォーク」という言葉は『読売新聞』1965年5月19日付の夕刊「新フォーク・ソングの泉をもとめて 永六輔、いずみ・たく氏ら全国へ取材の旅 六月には新作発表会」という記事に既に見られる[32]。なぎらは「フォーク・シーンを支える絶対数の多さから、フォークがファッション、精神的なものも含めて若者文化をリードした」と論じている[47]。振り返れば軽さはあるにせよ、それまでの若者の自己表現のツールが文学や学生運動などだったが[57]、フォークソングはそれに代わる明確な意思を持つ若者の新しい自己表現のツールであったことは確かである[57]。昭和40年代、日本中の若者という若者が、思わずフォークギターを手にしてしまった[57]

特に盛んだったのが東京[出典 48]、日本で最初のフォークソンググループとも言われる立教大学の大沢保が作った「セント・ポール・フォーク・シンガーズ」が[出典 49]、1963年12月24日に[62]、日本で初めてのフーテナニー[注釈 3]「フーテナニー'63」を他2組と銀座ガスホールで開催した[出典 51]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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