「フォーク・ミュージック」は、アメリカ合衆国(以下、アメリカ)で19世紀に研究者や愛好家によって蒐集された[6]。レコード会社はアメリカでは19世紀末にはすでに存在していたが[出典 4]、アメリカ南部の民族音楽を開拓するところまではいかなかった[7]。南部が音楽の宝庫であることに気づくのはずっと後になってからだった[7]。商品としてのレコードが作られたのは1890年だが、1本のシリンダーに1回の吹き込みしか出来ず、注文数に応じて吹き込みを何度もやってくれる歌手を探すのも大変だった[7]。シリンダーから円盤レコードになるのは、20世紀に入ってからで、1920年代に円盤レコードと蓄音機がレコード会社の商品として、市場に流通し始めた[出典 5]。
1929年の世界大恐慌後に誕生したフランクリン・ルーズベルト政権は、不況克服のためにニューディール政策を施行したが、それは政治経済分野だけでなく、文化的にも大きな影響を及ぼした[6]。「フェデラル・ワン」と呼ばれる芸術支援政策には多くの作家や音楽家が地方のコミュニティに派遣され、地元のブルースやワークソング、エスニック文化の採集を命じられた[6]。すでにアメリカ議会図書館にはアメリカのフォークソングを管理/保存する「アーカイブ・オブ・アメリカン・フォークソング
」が民間の基金によって1928年に設置されていたが、ジョン・ローマックス(後に息子のアラン・ローマックスが加わる)がディレクターに就任する1931年以降、蒐集活動はさらに活発になった[出典 6]。こうして「フォークソング」は1930年代に入ると公式にアメリカで「国民文化」として承認され「アメリカの音楽」として、文字通り国家のお墨付きを得た[6]。第一次世界大戦で疲弊したヨーロッパを尻目にそれまで「ヨーロッパの辺境」的位置付けに甘んじていたアメリカは、世界大戦以降、突如として国際政治の中心に躍り出た[6]。政治的地位が上昇した国家は必ず文化的なアイデンティティを必要とするため、アメリカはヨーロッパとは異なる独自の文化を模索した[6]。この流れの中でアメリカ文学の再評価が進み、音楽では「フォークソング/ルーツ・ミュージック(英語版)」も再評価され「国民文化」として正統化された[6]。ローマックス親子は、アメリカ議会図書館の委嘱を受け、録音器材を担ぎ、全米各地のフォークソングの収集をした[7]。そこで発見したのが「現代フォークソングの祖」といわれるウディ・ガスリーで[7]、ガスリーは不況下で放浪する「ホーボー」と呼ばれる人たちと共に全米をまわり、土着のメロディに新しい歌詞をつけて、貧困や政治、旅情や自然を歌った[出典 7]。ホーボーは貨物列車に無賃でもぐりこんで、土地から土地へ放浪し、収穫の手伝いなどの季節労働をしてその日暮らしをする人たちだった[7]。ガスリーは彼らのことを歌ったホーボーソング(渡り労働者の歌)をたくさん作った[7]。1000曲以上を残したガスリーは多くのミュージションに敬愛され、ピート・シーガー、ボブ・ディラン、ブルース・スプリングスティーン、シャロン・ジョーンズらが、ガスリーの歌を歌い継ぐ[出典 8]。ウィーヴァーズやピート・シーガーらもこの頃から活動を開始した。ピート・シーガーはハーバード大学を中退した中産階級出身のエリートだったが、1960年代以降にジャーナリスティックなメッセージ性を非常に強く押し出した[7]。第二次世界大戦後にソ連との冷戦が始まるとアメリカ国内の共産主義者に対する赤狩りが吹き荒れ、ジョセフ・マッカーシー上院上院議員は「フォーク」という用語を共産主義と結びつけて攻撃した[出典 9]。マスメディアは一斉に「フォーク」という用語を使用を控え、「カントリー」という言葉が流通するようになった。カントリー・ミュージックというジャンル名は1940年代に入って用いられたものだったが[6]、これをきっかけとして「カントリー・ミュージック」というジャンル名が定着した[6]。本来同じカテゴリーの音楽を目指していたはずの「フォーク・ミュージック」と「カントリー・ミュージック」はこれを機に政治的に離反した[6]。「フォーク・ミュージック」は赤狩り以降、共産党が民衆の音楽として評価し、一方で「カントリー・ミュージック」は保守的な価値観を内包する白人の「農村/田舎」の音楽として機能し始めた[6]。カントリー・ミュージックは「素朴」「郷愁」「楽天性」を漂わせたが、第二次世界大戦後のフォーク・ミュージックには「反抗」「左翼」「悲観性」といったニュアンスを際立たせた[7]。殺人を犯して服役した黒人シンガー・レッドベリーは、ブルースも歌ったが、仕事や刑務所や差別について歌い、フォーク・シンガーとしてアメリカ共産党から英雄視された[7]。