フォークソング
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1930年代から活動を続けたウディ・ガスリーとピート・シーガーの存在が1950年代から1960年代の「フォーク・ミュージック・リバイバル」(以下「フォークソング・リバイバル)」という大きな流れを生み出すきっかけになった[出典 10]。これらは民衆の歌であるフォークをもう一度自分たちの手に取り戻そうとする運動であると同時に、これらのルーツであるブルースブルーグラス、オールドタイミー(英語版)などを再発見する動きであった[出典 11]。彼らは伝承歌を再構成して歌うことが多かったが[8]、そこには主義主張が盛り込まれていた[8]。ウディ・ガスリーは伝統的な歌を歌い、彼自身も作曲をする。ウディの音楽はアメリカ議会図書館にも保管されている[10]。ウディのギター・ケースには「この楽器はファシストを殺す(This Machine kills fascists)」と書かれていた[出典 12]。「フォークソング・リバイバル」勃興期の演奏形態としては、バンジョー、アコースティックギター、ウッド・ベースという楽器編成が多かった。しかし、次第にバンジョーは使われなくなり、アコースティックギターが中心的な楽器となっていった。

「フォークソング・リバイバル」は、一般的にキングストン・トリオ(英語版)の「トム・ドゥーリー Tom Dooley」[11]が大ヒットした1958年からボブ・ディランエレキ・ギターに持ち替えた1965年までを指し[12]、この音楽的動きは1950年末期から[8]、1960年代に頂点に達した[8]ザ・キングストン・トリオ(1958年)

ザ・キングストン・トリオ en:The Kingston Trioはアメリカ西海岸出身で、過度に政治的なメッセージやプロテストソングは避け、いわゆる「お行儀の良い」大学生的な歌を歌っていた。Cracked Potという名の、大学内のクラブで歌っていたところをフランク・ウェルバー Frank Nicholas Werberに見出され、彼がマネージャーとなり、キャピトルレコードと契約を結ぶにいたった。最初のヒット曲は『トム・ドゥーリー』で、これはレッドベリーの追悼コンサートでも歌われ、レコードが300万枚以上売れるヒットとなり、グラミー賞のBest Country & Western Recording賞を受賞した。1958年から1961年にかけてのキングストン・トリオの大きな商業的成功によりキャピトルレコードに2,500万ドル(2021年の貨幣価値に換算して約2億2000万ドル)以上の巨額の収益がもたらされたことで、キャピトルレコードはキングストン・トリオに似たアーティストグループ、例えばブラザース・フォア en:the Brothers Four、ピーター・ポール&マリー en:Peter, Paul and Mary、ザ・ライムライターズ en:The Limeliters、ザ・チャド・ミッチェル・トリオen:The Chad Mitchell Trio、ザ・ニュー・クリスティ・ミンストレルズ en:The New Christy Minstrelsなどの楽曲のリリースにも力を入れてゆくことになった。
1960年代のフォーク・リバイバルの絶頂期と転機

第二次世界大戦後のアメリカは世界をリードする大国として君臨し[3]、「自由で豊かな理想の国・アメリカ」のイメージは定着し[3]、世界の人々はアメリカに憧れの目を向けた[3]。しかしアメリカの夢は『アメリカン・グラフィティ』の舞台になった1962年で終わったと言われる[3]ベトナム戦争の泥沼に足を取られつつあったアメリカでは、1963年8月に人種差別撤退を訴えるワシントン大行進が行われ、同年11月にはケネディ大統領暗殺事件が起き、それまで繁栄の陰に隠れていた矛盾が社会問題化しつつあった[3]。このような人種差別反対運動や東西対立などの新たな戦争に対する不安から、若い世代がコミュニケーションやメッセージの手段としてフォークソングに注目し、「フォークソング・リバイバル」は必ずしも昔を懐かしむムーブメントではなくなり[3]、若いフォークシンガーたちが自分たちの思いを託した新しい歌を発表しはじめた[出典 13]。1960年代前半にはフォーク・シーンはオリジナル曲が中心になっていった。当時は徴兵制のあったアメリカでは、実際に戦場に行かねばならないかも知れない現実に晒されていたアメリカの若者たちには切実な状況があった[3]。こうして激動するアメリカの政治運動と結びつき、フォークはますます政治や社会を批判するツールになっていく[7]

1958年末のキングストン・トリオ「トム・ドゥーリ―」の大ヒットで火がついた「フォークソング・リバイバル」は全米各地に、フォークソングを中心とした野外フェスティバルを生んだ[15]。1959年7月11?12日にロードアイランド州ニューポートのフリーボディ・パークで、第一回ニューポート・フォーク・フェスティバル(英語版)が開催された[15]。出演はピート・シーガーやキングストン・トリオ、ボブ・ギブソン(英語版)&ジョーン・バエズなど、フォーク・ブームの幕開けを告げるような内容だった[15]
アメリカでの転機

だがこのフォーク・リバイバルの絶頂期に、ある種の転機が訪れた。1965年のニューポート・フォーク・フェスティバルでは、ボブ・ディランエレキ・ギターを抱え、バック・バンドをしたがえて登場し、大ブーイングを浴びた[出典 14](Electric Dylan controversy)。このエポックメイキングな事件を境に「フォークソング・リバイバル」ブームは急速に衰退した[15]。これはかつてフォークとロックが水と油のような関係であったことを象徴する事件といえる[14]。反近代主義と反商業主義を掲げる「フォーク・ミュージック」で重要視されるのは歌のメッセージであり、言葉の伝達を容易にする場の親密さである[12]。フォークに傾倒する人々にとってはエレキ・ギターはテクノロジーの象徴であり、大音量で歌詞が聞き取りにくく、ビートルズに代表される商業主義のシンボルとして認めるわけにはいかなかった[12]。ボブ・ディランの演奏中にバックステージでは、ピート・シーガ―が怒りに震えながらを振り回してシールドケーブルを切ろうとしたなどの逸話も残る[12]。結果的にロックはここでフォークが持っていた反体制的で反商業主義的なイデオロギーを引き継ぎ、それを商業主義の枠内で実践しようとするジャンルとして発展していく[12]。ボブ・ディランの事件以降、1967年までの間に音楽用語として「ロック」が定着し[12]、「ロックンロール」という用語と区別されて使われるようになった[12]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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