フォークソング
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GSブームはフォークソングブームとは別の流れで[出典 63][注釈 4]、1957年から1959年頃のロカビリーブーム?1960年以降のベンチャーズ?ビートルズ来日に刺激されたエレキ・ブームの流れにあるものである[出典 64]

但しこの時期に音楽を志す若者が、最初の取っ掛かりとして、フォークギターか、エレキギターのどちらかを持ったという点では、日本のポップスの歴史の中では重要な季節であったといえる[出典 65]。また当時のフォークファンに大きな影響を与えたボブ・ディランが、1965年にフォークギターからエレキギターに持ち替え、フォークファンから非難された事件もショックな出来事で[出典 66]、フォークがロック化するのは世界的な傾向でもあった[出典 67]。本来的に考えれば、フォークソングとロックンロールは必ずしも対立するものではなく[85]、どちらもアイルランドスコットランドなどの移民伝承音楽、そして黒人音楽をルーツとして生まれたもので[85]カントリー・ミュージックを含めていわば親類関係にある音楽だった[85]。ところが限られた情報しかなかった日本から見る限り、フォークソングがアコースティックギター、ロックンロールがエレキギターという楽器の区別も分かりやすく見えた[85]。しかしフォークソング=良識、ロックンロール=不良という捉え方は、あまりに単純過ぎたし、どちらも元々、"体制に対する反抗の精神を根本に持っていたことを見落とし、それらが現象面だけから、全く別の欧米の新しい流行として受け入れられたことが、その後の日本のフォークとロックの関係をギクシャクしたものにしていった原因の一つになった[出典 68]。またフォークとロックを融合した「フォークロック」については[出典 69]、日本ではあまり語られないが、アメリカでは60年代末期にロック文化を根づかせる陰の力になったと評価されているという[出典 70]。先述の日本フィリップス・レコード元プロデューサー・本城和治は「日本初のフォークロックのグループはマイク眞木とザ・マイクスと思う」と述べている[99]
関西からの波

1969年になると下降線をたどるGSブームと入れ替わるように世の中がフォーク一色になった[出典 71]。東京と同様にフォークソングが盛んだったのは関西だった[出典 72]。前述のように日本のフォークの源流にうたごえ運動があり[8]、高石事務所?音楽舎?URCを立ち上げ[8]、関西フォークを主導した秦政明も、かつては積極的にうたごえ運動に関わった人で[8]全日本フォークジャンボリーを企画運営したのもうたごえ運動と関係する労音スタッフによるもので[出典 73]、初期の日本のフォークが、政治とも微妙な関係を持っていたのには、このような背景があった[8]

東京育ちのお坊ちゃまが歌うカレッジ・フォークへの反撥心から関西フォークは生まれた[出典 74]。直接の切っ掛けとしては1967年1月にジョーン・バエズが来日し[107]、大阪の府学連(大阪府学生自治会連合)の平和集会でベトナム反戦への熱い思いを訴えたことともいわれる[67]。また東京の業界から距離を持ち得たからこそ、よりアマチュア的な純粋さを保ちながら成長していくことが出来たとも言える[91]。コピーの多かった関東に比べて関西では1967年からフォークソングの特徴でもある集会スタイルのコンサート「フォークキャンプ」をいち早く開催した[70]

これに参加した京都の学生のグループ・ザ・フォーク・クルセダーズが「帰って来たヨッパライ」を自主製作し[出典 75]、これがラジオ関西深夜放送で取り上げられると大きな反響を呼び[出典 76]、これに目を付けたパシフィック音楽出版原盤権を獲得し[109]ニッポン放送を経て[109]東芝音楽工業から1967年暮れにシングルリリースされ[出典 77]、楽曲のユニークさから社会現象となり、280万枚を売り上げるメガヒットになった[出典 78]。これはフォークソングの自作自演曲としては初めての大ヒット曲といえるものだが[出典 79]、加工が施された内容からカテゴリーが難しく[出典 80]、早回し録音がウケたコミックソングに入れられることも多いが[出典 81]、実験的な手法は後期ビートルズの影響を指摘されることもあり[出典 82]、この曲を日本語ロックの先駆と評価されることもある[70]。また70年代に吉田拓郎井上陽水かぐや姫らが花開けたのもフォークルの活躍があったからこそという評価もある[109]。「帰って来たヨッパライ」の大ヒットにより注目されたのが関西フォークだった[出典 83]。関西フォークは東京のカレッジフォークが飛び火したもので[出典 84]、当初は関西にもカレッジフォークのグループはいた[出典 85]。しかし今日では東京のカレッジフォークとは大きく異なり、オリジナルの反戦フォーク、プロテスト・フォーク、アングラ・フォークを主体としたものとして語られる[出典 86]。きれいごとのカレッジフォークを打破するが如く、そのカウンターカルチャーとして出現した[出典 87]
プロテストソングとしてのフォークソング

プロテストソングという言葉は、日本語では抗議の歌と訳されることがあるが[117]、思想的、政治的な信条を歌に託して訴えるもので[117]、勿論これもアメリカからの輸入で、60年代のアメリカでの公民権運動の際に「勝利を我等に」がそのアンセムとなり、ジョーン・バエズやピート・シーガー、ボブ・ディランらによって広く歌われた[117]


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