フォークソング
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すでにアメリカ議会図書館にはアメリカのフォークソングを管理/保存する「アーカイブ・オブ・アメリカン・フォークソング」が民間の基金によって1928年に設置されていたが、ジョン・ローマックス(後に息子のアラン・ローマックスが加わる)がディレクターに就任する1931年以降、蒐集活動はさらに活発になった[出典 6]。こうして「フォークソング」は1930年代に入ると公式にアメリカで「国民文化」として承認され「アメリカの音楽」として、文字通り国家のお墨付きを得た[6]第一次世界大戦で疲弊したヨーロッパを尻目にそれまで「ヨーロッパの辺境」的位置付けに甘んじていたアメリカは、世界大戦以降、突如として国際政治の中心に躍り出た[6]。政治的地位が上昇した国家は必ず文化的なアイデンティティを必要とするため、アメリカはヨーロッパとは異なる独自の文化を模索した[6]。この流れの中でアメリカ文学の再評価が進み、音楽では「フォークソング/ルーツ・ミュージック(英語版)」も再評価され「国民文化」として正統化された[6]。ローマックス親子は、アメリカ議会図書館の委嘱を受け、録音器材を担ぎ、全米各地のフォークソングの収集をした[7]。そこで発見したのが「現代フォークソングの祖」といわれるウディ・ガスリー[7]、ガスリーは不況下で放浪する「ホーボー」と呼ばれる人たちと共に全米をまわり、土着のメロディに新しい歌詞をつけて、貧困や政治、旅情や自然を歌った[出典 7]。ホーボーは貨物列車無賃でもぐりこんで、土地から土地へ放浪し、収穫の手伝いなどの季節労働をしてその日暮らしをする人たちだった[7]。ガスリーは彼らのことを歌ったホーボーソング(渡り労働者の歌)をたくさん作った[7]。1000曲以上を残したガスリーは多くのミュージションに敬愛され、ピート・シーガーボブ・ディランブルース・スプリングスティーン、シャロン・ジョーンズらが、ガスリーの歌を歌い継ぐ[出典 8]ウィーヴァーズやピート・シーガーらもこの頃から活動を開始した。ピート・シーガーはハーバード大学を中退した中産階級出身のエリートだったが、1960年代以降にジャーナリスティックなメッセージ性を非常に強く押し出した[7]

第二次世界大戦後にソ連との冷戦が始まるとアメリカ国内の共産主義者に対する赤狩りが吹き荒れ、ジョセフ・マッカーシー上院上院議員は「フォーク」という用語を共産主義と結びつけて攻撃した[出典 9]マスメディアは一斉に「フォーク」という用語を使用を控え、「カントリー」という言葉が流通するようになった。カントリー・ミュージックというジャンル名は1940年代に入って用いられたものだったが[6]、これをきっかけとして「カントリー・ミュージック」というジャンル名が定着した[6]。本来同じカテゴリーの音楽を目指していたはずの「フォーク・ミュージック」と「カントリー・ミュージック」はこれを機に政治的に離反した[6]。「フォーク・ミュージック」は赤狩り以降、共産党が民衆の音楽として評価し、一方で「カントリー・ミュージック」は保守的な価値観を内包する白人の「農村/田舎」の音楽として機能し始めた[6]。カントリー・ミュージックは「素朴」「郷愁」「楽天性」を漂わせたが、第二次世界大戦後のフォーク・ミュージックには「反抗」「左翼」「悲観性」といったニュアンスを際立たせた[7]。殺人を犯して服役した黒人シンガー・レッドベリーは、ブルースも歌ったが、仕事や刑務所や差別について歌い、フォーク・シンガーとしてアメリカ共産党から英雄視された[7]。カントリーは人々がかかえる不安を慰安し、フォークは抵抗へと駆り立てていく[7]。1950年代以降のフォークを盛り上げたのは、主に都会のインテリ白人大学生だった[7]。当時の音楽シーンは、黒人はブルース、白人はカントリー、そして中産階級のインテリ層が60年代のモダン・フォークを支えた[4]
1950年代のフォーク・ミュージック・リバイバルウディ・ガスリー

1930年代から活動を続けたウディ・ガスリーとピート・シーガーの存在が1950年代から1960年代の「フォーク・ミュージック・リバイバル」(以下「フォークソング・リバイバル)」という大きな流れを生み出すきっかけになった[出典 10]。これらは民衆の歌であるフォークをもう一度自分たちの手に取り戻そうとする運動であると同時に、これらのルーツであるブルースブルーグラス、オールドタイミー(英語版)などを再発見する動きであった[出典 11]。彼らは伝承歌を再構成して歌うことが多かったが[8]、そこには主義主張が盛り込まれていた[8]。ウディ・ガスリーは伝統的な歌を歌い、彼自身も作曲をする。ウディの音楽はアメリカ議会図書館にも保管されている[10]。ウディのギター・ケースには「この楽器はファシストを殺す(This Machine kills fascists)」と書かれていた[出典 12]。「フォークソング・リバイバル」勃興期の演奏形態としては、バンジョー、アコースティックギター、ウッド・ベースという楽器編成が多かった。しかし、次第にバンジョーは使われなくなり、アコースティックギターが中心的な楽器となっていった。

「フォークソング・リバイバル」は、一般的にキングストン・トリオ(英語版)の「トム・ドゥーリー Tom Dooley」[11]が大ヒットした1958年からボブ・ディランエレキ・ギターに持ち替えた1965年までを指し[12]、この音楽的動きは1950年末期から[8]、1960年代に頂点に達した[8]ザ・キングストン・トリオ(1958年)

ザ・キングストン・トリオ en:The Kingston Trioはアメリカ西海岸出身で、過度に政治的なメッセージやプロテストソングは避け、いわゆる「お行儀の良い」大学生的な歌を歌っていた。Cracked Potという名の、大学内のクラブで歌っていたところをフランク・ウェルバー Frank Nicholas Werberに見出され、彼がマネージャーとなり、キャピトルレコードと契約を結ぶにいたった。最初のヒット曲は『トム・ドゥーリー』で、これはレッドベリーの追悼コンサートでも歌われ、レコードが300万枚以上売れるヒットとなり、グラミー賞のBest Country & Western Recording賞を受賞した。


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