特に盛んだったのが東京で[出典 48]、日本で最初のフォークソンググループとも言われる立教大学の大沢保が作った「セント・ポール・フォーク・シンガーズ」が[出典 49]、1963年12月24日に[62]、日本で初めてのフーテナニー[注釈 3]「フーテナニー'63」を他2組と銀座ガスホールで開催した[出典 51]。この催しが一つのきっかけとなって、それまでバラバラだったフォークソング運動に横の連帯が生まれた[出典 52]。1964年暮れと1965年6月に「ジュニア・ジャンボリー」が成功し、カレッジフォークのパターンが決まった[62]。但し、1965年頃まではプログラムの半分以上はカントリー&ウエスタンだったともいわれる[9]。ここから各所で「〇〇フーテナニー」「〇〇ジャンボリー」「〇〇フェスティバル」など呼ばれるコンサートが開かれた[出典 53]。1965年10月にはキングストン・トリオらアメリカカレッジのキャンパスシンガーたちが、日劇で開かれた「第1回フォークソング・フェスティバル」に総出で出演した[67]。マイク真木の在籍した「モダン・フォーク・カルテット」や石川鷹彦が在籍していた「フォーク・ウィンズ」、「ハミング・バーズ」など、各大学にカレッジ・フォークのグループがあり[出典 54]、森山良子や細野晴臣もカレッジ・フォーク出身者で[出典 55]、細野も「オックス・ドライヴァーズ」というグループを率いてキングストン・トリオなどを歌っていた[70]。国産初の本格的なフォーク・ギターが発売されたのは1966年(ヤマハFG180、18,000円)[86]。同年にはカレッジ・フォーク出身のマイク眞木「バラが咲いた」や[出典 56]、ザ・ブロードサイド・フォーの「若者たち」が同名ドラマの主題歌として大ヒットし[87]、日本でフォークブームが起きた[出典 57]。これらは職業作家の作品で自作自演ではなく[出典 58]、既成の歌謡曲のフィールドで作り出された「フォークソング風歌謡曲」で[85]、マイク眞木を日本のボブ・ディランとして売り出そうとした時代感覚はかなりズレていた[85]。当時はレコード会社の力が圧倒的で[77]、作家(作詞家・作曲家)はレコード会社の専属制を執っており[77]、レコード会社の専属でない者が、自身で作詞・作曲したレコードを出すのは難しかった[77]。当時のレコード会社がリリースする流行歌の内容は、青春や恋愛などを歌った他愛もないもので[77]、フォークっぽい曲を狙って出しても実質は歌謡曲だった[77]。「バラが咲いた」も、浜口庫之助がジョニー・ティロットソンに書いたものを[出典 59]、デモテープを頼んだマイク眞木のバージョンの出来がとても良かったことから、代わりに歌ってシングルリリースされ大ヒットしたものだった[出典 60]。2023年7月22日にBSフジで放送された『HIT SONG MAKERS フォークソングスペシャル ?日本のフォークソングは如何に生まれたのか?』では、マイク眞木は、レコーディングの際にレコード会社から「フォークソング風に歌ってくれ、と要請を受けた」と証言している。「バラが咲いた」はフォークソング風歌謡曲である[57]。
このようなセンスは同時期に流行った海外のロック・ムーブメントの歌謡曲展開だったグループ・サウンズ (GS) に近いものがあった[85]。