フォークソング
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芝生の植えられたキャンパスで、アイビーファッションに身を包み、ギターを片手にアメリカのモダンフォーク[注釈 2]コピーを歌う[出典 45]。ギター1本あればみんなと一緒に歌うことが出来るのもフォークソングの魅力だった[61]。それまでに日本に入って来た洋楽は、演じる側と聴く側に境界線があったが[79]、フォークソングはその境界線を取り払った音楽だった[47]。それまでの既成の音楽と著しく違っていたのは、歌い手自ら作詞家作曲家になれたことで[47]なぎら健壱は「シンガーソングライター」も実質的にここを始まりとしている」と論じている[47]。自作で曲を作るのはもう少し後の話で[9]、初期のカレッジ・フォークは、エリート意識とアメリカ文化への憧れから、演奏に関しては英語の歌詞で歌うことに徹する原語主義が貫かれていたという[出典 46]。これが60年代の最新トレンドであり、これらはキャンパス・フォーク、カレッジ・フォークなどと呼ばれるようになった[出典 47]日本フィリップス・レコードの元プロデューサーディレクター本城和治は「担当していた森山良子のアルバムに『カレッジフォーク』という言葉を当て嵌めたんですね。『カレッジフォーク』という言葉を使っているのはフィリップスだけ。僕は『キャンパスフォーク』というのは抵抗があった。会社によって『キャンパスフォーク』とか独自の言い方をしていましたね」などと述べているが[81]、森山のレコードデビューは1967年1月25日リリースのシングルこの広い野原いっぱい」が最初で、「カレッジ・フォーク」という言葉は『読売新聞』1965年5月19日付の夕刊「新フォーク・ソングの泉をもとめて 永六輔、いずみ・たく氏ら全国へ取材の旅 六月には新作発表会」という記事に既に見られる[32]。なぎらは「フォーク・シーンを支える絶対数の多さから、フォークがファッション、精神的なものも含めて若者文化をリードした」と論じている[47]。振り返れば軽さはあるにせよ、それまでの若者の自己表現のツールが文学や学生運動などだったが[57]、フォークソングはそれに代わる明確な意思を持つ若者の新しい自己表現のツールであったことは確かである[57]。昭和40年代、日本中の若者という若者が、思わずフォークギターを手にしてしまった[57]

特に盛んだったのが東京[出典 48]、日本で最初のフォークソンググループとも言われる立教大学の大沢保が作った「セント・ポール・フォーク・シンガーズ」が[出典 49]、1963年12月24日に[62]、日本で初めてのフーテナニー[注釈 3]「フーテナニー'63」を他2組と銀座ガスホールで開催した[出典 51]。この催しが一つのきっかけとなって、それまでバラバラだったフォークソング運動に横の連帯が生まれた[出典 52]。1964年暮れと1965年6月に「ジュニア・ジャンボリー」が成功し、カレッジフォークのパターンが決まった[62]。但し、1965年頃まではプログラムの半分以上はカントリー&ウエスタンだったともいわれる[9]。ここから各所で「〇〇フーテナニー」「〇〇ジャンボリー」「〇〇フェスティバル」など呼ばれるコンサートが開かれた[出典 53]。1965年10月にはキングストン・トリオらアメリカカレッジのキャンパスシンガーたちが、日劇で開かれた「第1回フォークソング・フェスティバル」に総出で出演した[67]マイク真木の在籍した「モダン・フォーク・カルテット」や石川鷹彦が在籍していた「フォーク・ウィンズ」、「ハミング・バーズ」など、各大学にカレッジ・フォークのグループがあり[出典 54]森山良子細野晴臣もカレッジ・フォーク出身者で[出典 55]、細野も「オックス・ドライヴァーズ」というグループを率いてキングストン・トリオなどを歌っていた[70]。国産初の本格的なフォーク・ギターが発売されたのは1966年(ヤマハFG180、18,000円)[86]。同年にはカレッジ・フォーク出身のマイク眞木「バラが咲いた」や[出典 56]ザ・ブロードサイド・フォーの「若者たち」が同名ドラマ主題歌として大ヒットし[87]、日本でフォークブームが起きた[出典 57]。これらは職業作家の作品で自作自演ではなく[出典 58]、既成の歌謡曲のフィールドで作り出された「フォークソング風歌謡曲」で[85]、マイク眞木を日本のボブ・ディランとして売り出そうとした時代感覚はかなりズレていた[85]。当時はレコード会社の力が圧倒的で[77]、作家(作詞家作曲家)はレコード会社の専属制を執っており[77]、レコード会社の専属でない者が、自身で作詞・作曲したレコードを出すのは難しかった[77]。当時のレコード会社がリリースする流行歌の内容は、青春恋愛などを歌った他愛もないもので[77]、フォークっぽい曲を狙って出しても実質は歌謡曲だった[77]。「バラが咲いた」も、浜口庫之助ジョニー・ティロットソンに書いたものを[出典 59]デモテープを頼んだマイク眞木のバージョンの出来がとても良かったことから、代わりに歌ってシングルリリースされ大ヒットしたものだった[出典 60]。2023年7月22日にBSフジで放送された『HIT SONG MAKERS フォークソングスペシャル ?日本のフォークソングは如何に生まれたのか?』では、マイク眞木は、レコーディングの際にレコード会社から「フォークソング風に歌ってくれ、と要請を受けた」と証言している。「バラが咲いた」はフォークソング風歌謡曲である[57]

このようなセンスは同時期に流行った海外のロック・ムーブメントの歌謡曲展開だったグループ・サウンズ (GS) に近いものがあった[85]


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