フォークソング
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ピート・シーガーはハーバード大学を中退した中産階級出身のエリートだったが、1960年代以降にジャーナリスティックなメッセージ性を非常に強く押し出した[7]

第二次世界大戦後にソ連との冷戦が始まるとアメリカ国内の共産主義者に対する赤狩りが吹き荒れ、ジョセフ・マッカーシー上院上院議員は「フォーク」という用語を共産主義と結びつけて攻撃した[出典 9]マスメディアは一斉に「フォーク」という用語を使用を控え、「カントリー」という言葉が流通するようになった。カントリー・ミュージックというジャンル名は1940年代に入って用いられたものだったが[6]、これをきっかけとして「カントリー・ミュージック」というジャンル名が定着した[6]。本来同じカテゴリーの音楽を目指していたはずの「フォーク・ミュージック」と「カントリー・ミュージック」はこれを機に政治的に離反した[6]。「フォーク・ミュージック」は赤狩り以降、共産党が民衆の音楽として評価し、一方で「カントリー・ミュージック」は保守的な価値観を内包する白人の「農村/田舎」の音楽として機能し始めた[6]。カントリー・ミュージックは「素朴」「郷愁」「楽天性」を漂わせたが、第二次世界大戦後のフォーク・ミュージックには「反抗」「左翼」「悲観性」といったニュアンスを際立たせた[7]。殺人を犯して服役した黒人シンガー・レッドベリーは、ブルースも歌ったが、仕事や刑務所や差別について歌い、フォーク・シンガーとしてアメリカ共産党から英雄視された[7]。カントリーは人々がかかえる不安を慰安し、フォークは抵抗へと駆り立てていく[7]。1950年代以降のフォークを盛り上げたのは、主に都会のインテリ白人大学生だった[7]。当時の音楽シーンは、黒人はブルース、白人はカントリー、そして中産階級のインテリ層が60年代のモダン・フォークを支えた[4]
1950年代のフォーク・ミュージック・リバイバルウディ・ガスリー

1930年代から活動を続けたウディ・ガスリーとピート・シーガーの存在が1950年代から1960年代の「フォーク・ミュージック・リバイバル」(以下「フォークソング・リバイバル)」という大きな流れを生み出すきっかけになった[出典 10]。これらは民衆の歌であるフォークをもう一度自分たちの手に取り戻そうとする運動であると同時に、これらのルーツであるブルースブルーグラス、オールドタイミー(英語版)などを再発見する動きであった[出典 11]。彼らは伝承歌を再構成して歌うことが多かったが[8]、そこには主義主張が盛り込まれていた[8]。ウディ・ガスリーは伝統的な歌を歌い、彼自身も作曲をする。ウディの音楽はアメリカ議会図書館にも保管されている[10]。ウディのギター・ケースには「この楽器はファシストを殺す(This Machine kills fascists)」と書かれていた[出典 12]。「フォークソング・リバイバル」勃興期の演奏形態としては、バンジョー、アコースティックギター、ウッド・ベースという楽器編成が多かった。しかし、次第にバンジョーは使われなくなり、アコースティックギターが中心的な楽器となっていった。

「フォークソング・リバイバル」は、一般的にキングストン・トリオ(英語版)の「トム・ドゥーリー Tom Dooley」[11]が大ヒットした1958年からボブ・ディランエレキ・ギターに持ち替えた1965年までを指し[12]、この音楽的動きは1950年末期から[8]、1960年代に頂点に達した[8]ザ・キングストン・トリオ(1958年)

ザ・キングストン・トリオ en:The Kingston Trioはアメリカ西海岸出身で、過度に政治的なメッセージやプロテストソングは避け、いわゆる「お行儀の良い」大学生的な歌を歌っていた。Cracked Potという名の、大学内のクラブで歌っていたところをフランク・ウェルバー Frank Nicholas Werberに見出され、彼がマネージャーとなり、キャピトルレコードと契約を結ぶにいたった。最初のヒット曲は『トム・ドゥーリー』で、これはレッドベリーの追悼コンサートでも歌われ、レコードが300万枚以上売れるヒットとなり、グラミー賞のBest Country & Western Recording賞を受賞した。1958年から1961年にかけてのキングストン・トリオの大きな商業的成功によりキャピトルレコードに2,500万ドル(2021年の貨幣価値に換算して約2億2000万ドル)以上の巨額の収益がもたらされたことで、キャピトルレコードはキングストン・トリオに似たアーティストグループ、例えばブラザース・フォア en:the Brothers Four、ピーター・ポール&マリー en:Peter, Paul and Mary、ザ・ライムライターズ en:The Limeliters、ザ・チャド・ミッチェル・トリオen:The Chad Mitchell Trio、ザ・ニュー・クリスティ・ミンストレルズ en:The New Christy Minstrelsなどの楽曲のリリースにも力を入れてゆくことになった。
1960年代のフォーク・リバイバルの絶頂期と転機

第二次世界大戦後のアメリカは世界をリードする大国として君臨し[3]、「自由で豊かな理想の国・アメリカ」のイメージは定着し[3]、世界の人々はアメリカに憧れの目を向けた[3]。しかしアメリカの夢は『アメリカン・グラフィティ』の舞台になった1962年で終わったと言われる[3]ベトナム戦争の泥沼に足を取られつつあったアメリカでは、1963年8月に人種差別撤退を訴えるワシントン大行進が行われ、同年11月にはケネディ大統領暗殺事件が起き、それまで繁栄の陰に隠れていた矛盾が社会問題化しつつあった[3]。このような人種差別反対運動や東西対立などの新たな戦争に対する不安から、若い世代がコミュニケーションやメッセージの手段としてフォークソングに注目し、「フォークソング・リバイバル」は必ずしも昔を懐かしむムーブメントではなくなり[3]、若いフォークシンガーたちが自分たちの思いを託した新しい歌を発表しはじめた[出典 13]。1960年代前半にはフォーク・シーンはオリジナル曲が中心になっていった。当時は徴兵制のあったアメリカでは、実際に戦場に行かねばならないかも知れない現実に晒されていたアメリカの若者たちには切実な状況があった[3]。こうして激動するアメリカの政治運動と結びつき、フォークはますます政治や社会を批判するツールになっていく[7]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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