フォレスト・J・アッカーマン
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1916年11月24日、ロサンゼルスでフォーレスト・ジェームズ・アッカーマン (Forrest James Ackerman) として生まれる[8]。ただし本人は1930年代からミドルネームをピリオドなしのJで表している。父はニューヨーク出身、母はオハイオ出身で、母の方が父より7歳年上だった[9]カリフォルニア大学バークレー校に約1年(1934年-1935年)だけ通い、映写技師として働き、1942年8月15日から3年間アメリカ陸軍に勤務した[8][10]

教師で翻訳家の Wendayne (Wendy) Wahrman (1912?1990) と結婚し、死別するまで添い遂げている[4]

アッカーマンは国際補助語エスペラントを流暢に話し、かつて俳優のレオ・G・キャロルと腕を組み、ハリウッド大通りを歩きながらエスペラントの歌「ラ・エスペーロ」を歌ったことがあるという。
経歴とファンダム活動

1922年に映画 One Glorious Day[11] に出会って衝撃を受け、1926年に初めてSF雑誌アメージング・ストーリーズを買い、1930年には The Boys' Scientifiction Club を結成した(Boysとあるのは、当時女性SFファンはユニコーンの角よりも珍しかったため)。1932年には世界初と言われているSFファンジン The Time Traveller に関わり、後にスーパーマンで名声を勝ち取ることになるシーゲルとシャスターが創刊したファンジン Science Fiction にも関わった。アッカーマンの名は Science Fiction 第3号に掲載された "The Reign of the Super-Man の中にリポーターとして登場している[12]。彼はロサンゼルス・サイエンス・ファンタジー協会 (LASFS) の初期会員の1人でもあり、数十年に渡って同協会で活発に活動した。

1939年には第1回ワールドコンに参加し、世界初のコスプレ(アッカーマンは futuristicostume と名付けた)をした[13][14]。2回を除いて、アッカーマンは生涯全てのワールドコンに参加している。アッカーマンはロサンゼルスの繁華街のカフェテリアで毎週集まっていた Science Fiction League のロサンゼルス支部の集会にレイ・ブラッドベリを連れて行った。なお、この集まりが後にロサンゼルス・サイエンス・ファンタジー協会 (LASFS) となった。そこによく来ていた作家としては、ロバート・A・ハインラインフレドリック・ブラウンヘンリー・カットナーリイ・ブラケットジャック・ウィリアムスンらがいる。ブラッドベリは友人のレイ・ハリーハウゼンを伴って参加していた。1939年、ブラッドベリはアッカーマンから90ドルの資金援助を受け、Futuria Fantasia というファンジンを立ち上げている。

アッカーマンはSF映画、ファンタジー映画、ホラー映画などにゆかりのある品々を多数収集したコレクションを所有し、2002年までそれらを "Son of Ackermansion" と名付けた18部屋もある自宅兼博物館に収めていた(もともとの「アッカーマンション」は1950年代から1970年代まで住んでいた家で、現存しない)。この2代目アッカーマンションには30万冊の本と1951年から2002年まで収集した様々な映画とSF関連の品があった。アッカーマンはここで5万人ものファンを歓待し、ある夜などは186人のファンとプロの作家、さらには宇宙飛行士エドウィン・オルドリンまで訪れたことがある。アッカーマンはシアトルの Science Fiction Museum and Hall of Fame の役員でもあり、今ではそのコレクションの多くはそちらで展示している。

彼は20世紀前半のSF作家の多くと知り合いだった。版権代理人として200人の作家の代理人を務めていた。また、作家の死後も代理人を続け、アンソロジーなどに作品が掲載される場合の業務を行っていた。作家ではないがエド・ウッドの代理人も務めた。アッカーマンは同時代の若い作家の育成にも寄与しており[15]、例えばレイ・ブラッドベリ、レイ・ハリーハウゼンマリオン・ジマー・ブラッドリーL・ロン・ハバードなどが彼の世話になっている[4]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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