フォッカー_D.XXI
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D.XXIの製造ライセンスはスペイン第二共和政府も必要としていた。記録では50機分の胴体がスペイン側の製造ライン上で完成している。しかし、スペインの工場で生産された戦闘機は、いずれも完成する前に反乱軍によって制圧、接収された。幾つかの文献では、工場が制圧されたのちも、1機のみスペイン製のD.XXIが接収を免れたとしている[6]
設計事故を起こし、胴体前部のみ保管されたフォッカー D.XXI

フォッカー D.XXIは低翼単葉の戦闘機である[2]。当時の標準的なフォッカー社の設計を実践し、本機は鋼管を溶接し、繊維で広く覆っていることが特徴である。これには舵面も含まれる。代わりに、主翼後縁の前方部分は取り外し可能なアルミ板が用いられている。主翼は木製で、2個の箱型の主桁を合板で作られたリブに取り付けて構成される[2]。この機の降着装置は固定式で、スパッツをつけた片持ち式の脚を装備した。ブレーキを利かせるには、圧搾空気を利用し、独立に作動するペダルで行われた[2]

D.XXIのコックピットは、プレキシガラスの天蓋で完全に周囲が覆われている。また大きく開放でき、緊急事態ではパイロットの脱出のため完全に投棄できた[2]。座席後方の構造内に設けられた支柱によって、パイロットは機が転覆した際にも負傷から防護されている。燃料はエンジン後方に位置する容量77ガロンの燃料槽に収容されるほか、補助燃料タンクを翼内に内蔵することもできた[2]。主兵装は2組の7.92mm M36 FN-ブローニング機銃を積んで構成された。うち1組は主翼内に搭載され、弾薬各300発を携行した。もう一組は胴体前方に搭載され、プロペラのブレード圏内を抜けて射撃が行われる。携行弾数は各500発[2]

1938年に就役した時、D.XXIはオランダ陸軍航空群の前に大いなる飛躍を突きつけた。当時まで、軍の戦闘機部隊は年経て開放式のコックピットを装備する複葉機で構成されていた。新しいフォッカーはダイブの際に降下速度700km/hを達成する能力があり、極めて頑丈な飛行機であることも速やかに証明した。

D.XXIの初期の量産中、フォッカー社の設計部は、基本設計から数種類の派生型を検討しており、それは主翼の再設計や、エンジンを他の数種類の候補と交換するなどであった。こうした主機には650馬力のロールス・ロイス・ケストレルVや750馬力のプラット&ホイットニー・ツイン・ワスプ・ジュニアが含まれる。1938年中には、広く改修を施した150、151、152として知られる3種類のタイプが着手された。これらの航空機は1,375馬力のブリストル・ハーキュリーズや1,050馬力のロールス・ロイス・マーリン、そして1,090馬力のダイムラーベンツDB 600Hで駆動される予定だった。この再設計の中に、主脚を引き込み式とする案が組み込まれていた。
作戦投入フォッカー D.XXI、1942年8月

フィンランド空軍のフォッカーD.XXIは、ソビエト連邦とフィンランドとの間に行われた、1939年-1940年にかけての冬戦争中に最初の実戦投入を経験している[9]。戦争の勃発時、総計41機がフィンランド側で就役しており、全てがマーキュリーVIIIエンジンで駆動していた。1939年12月1日、D.XXIはソビエトのツポレフSBを撃墜して初勝利を達成した[9]。フォッカーはソビエト空軍の機材に対して互角に戦い、また星型エンジンや固定式の降着装置といった頑強な設計はフィンランドの状況にうまく合致することとなった。フィンランドのD.XXIの性能は多くのソビエト操縦士の感心を集めた[9]

冬戦争の継続、そして新型のソ連戦闘機が出現し、いよいよフォッカー D.XXIは低出力で火力が弱すぎ、対抗できないことが明らかとなった。主兵装は7.92mm機銃が4挺のみであった。フォッカーに20mm機関砲を搭載することが計画されたものの立ち消えとなり、戦闘機1機のみが2門の20mm機関砲と2挺の7.92mm機銃を備えた。また別の戦闘機が引き込み式の主脚に換装したが、期待されたほどの性能の改善はなかったため、それ以降の改修続行はなかった。固定式の降着装置は、荒れた滑走路や、冬季に用いるスキー仕様への改修に適しており、どちらもフィンランドの戦場では有利な点であった。総計12機のD.XXIが戦争中に失われ、うち6機は敵の攻撃によらず事故で失われた[10]

フィンランドとソ連との間の戦いは1941年-1944年の継続戦争によって再開され、D.XXIはふたたびフィンランド空軍の兵力の鍵となった[7]。最初の空戦の最中、6機のマーキュリーエンジンを積んだD.XXIが2機のソ連側イリューシンDB-3爆撃機を撃墜した。幾人かのフィンランド空軍の操縦士たちは、フォッカー D.XXIによって戦闘機エースとなった。フォッカーのエースで最高戦果を収めたのはヨルマ・サーヴァントで、この型の飛行機で12機と5/6の戦果を収めた。また多数のエースがフォッカーで少なくとも1機の撃墜を記録した。最高のスコアを持つ機体はFR-110で、10機の撃墜を達成した。この機は戦争を生き延び、フィンランド中央航空博物館に展示されている。フィンランドは自前のD.XXIの運用を1949年まで続け、それから1952年の要求事項でこれらを余剰物に分類した[8]フィンランド空軍のフォッカー D.XXI、飛行中のペア

王立オランダ領東インド陸軍航空隊むけの発注は取り消されたといえ、オランダ陸軍航空部隊では戦闘機36機の発注を行っており、これらの配備は1940年5月のドイツ軍侵攻に抵抗するのに間に合った[8]。1940年5月10日、この日ドイツ軍はオランダ侵攻のため進発し、28機のD.XXIが準備を整え、実戦投入可能だった。最初の日、6機のD.XXIがフォッカー T.V爆撃機の編隊を援護した。これはドイツ軍の進撃阻止のためマース川の橋梁群の攻撃に向かうものだった。この部隊は9機のドイツ側メッサーシュミットBf 109に迎撃され、それに続く格闘戦で1機のBf 109が撃墜され、2機以上が損傷を受けた。D.XXIの1機とT.V爆撃機が2機撃墜された[8]。同日、D.XXIの編隊は迎撃を行い、早朝の間に国境を越えて兵員を輸送するため飛来したユンカースJu52、55機のうち37機を撃墜した[11]

初日を過ぎると戦闘でうけた損傷のため、多数の航空機が任務に耐えなくなり、5月11日、アムステルダム北部のバイクスロートでの再編が決定された。続く4日間でバイクスロートから行われた出撃はD.XXIの単機または小さな集団が味方部隊を援護しに飛行するか、捜索打撃の任務につくものだった[8]。5月11日、D.XXI戦闘機によって少なくとも2機のBf 109の撃墜が記録された[8]。数的に優位なドイツ軍部隊に対する出撃は5月14日中ごろまで繰り返され、この時点でオランダの降伏がバイクスルートまで達しており、ドイツ軍による利用を防ぐために残った航空機と滑走路の両方ともが破壊された。元の兵力である28機のD.XXIのうち、8機が飛行に耐える状態で残されていた[11]。D.XXIはBf 109よりも速度がずっと遅く軽武装とはいえ、機動性を理由として戦闘では驚くほど良い性能を発揮した。それはまた、Ju 87スツーカのダイブに追従できる航空機のうちの一種だった。にもかかわらず、ドイツ空軍の数的優位は作戦中の大半のオランダ側航空戦力とD.XXI戦闘機の撃破に至った。


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