フェルナンド7世_(スペイン王)
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1820年1月1日ラファエル・デル・リエゴ・イ・ヌニェス大佐が、南米の独立戦争を鎮圧すべくセビリア県のカベーセス・デ・サン・フアンに集結していた部隊を率いて反乱を起こし、それはやがて1812年憲法復活を要求する巨大な暴動となりフェルナンドはすぐに捕らえられた。彼はひとたまりもなくかつて両親に行ったように反乱軍に跪いてみせた。だがあくまで権力の座にしがみつこうとしたフェルナンドは裏でイエズス会に協力を要請、1822年にイエズス会派25人がマドリードで殺害されているように、イエズス会は解放の時代に王党派の抑圧と専制政治を支持し解放派と激しい戦いを演じた。19世紀のスペインにとってイエズス会の追放と再建は、解放と専制政治のせめぎあいの連続であった。この混乱の際、1810年以来独立運動で揺れていた植民地ヌエバ・エスパーニャメキシコ)では、独立に強固に反対していた王党派がフェルナンド7世を支持し、リエゴ大佐ら革命派を攻撃した。これにより地元住民はスペイン本国から心が離れてしまい、メキシコ独立を加速することとなった。

1823年初頭にヴェローナ会議の結論としてフランスが「アンリ4世の家系にスペイン王位を引き継がせ、ヨーロッパとその素晴らしい王国を保護するために聖ルイの神の加護を求めて」スペインに侵攻すると、5月に革命派はフェルナンドをカディスに連行した。幽閉中のフェルナンドは憲法の復活を約束したがそれも釈放されるまでの話だった。

介入のため進攻してきたアングレーム公率いるフランス軍はトロカデロの戦いで革命派の軍を破り、次いでカディスを占領してフェルナンドを釈放した。権力の座に戻るやフェルナンドは恩赦の誓いをいち早く反故にして早速報復に取り掛かった。リエゴ・イ・ヌニェス大佐ら革命派の主だったものは処刑され、恐怖政治は3年間続いた。その残虐さは王党派すら愛想を尽かすほど凄まじいものだったという。
晩年1832年、マリア・クリスティーナ王妃と

晩年にはフェルナンドの体力は衰えた。もはや気まぐれに閣僚を入れ替えることすらせず、何人かの側近に国政を完全に委ねた。日常の習慣は、自分のことを話すことであった。フェルナンドは怠惰になり、太りすぎて見るも無残な姿になった。1829年両シチリア王国の王女マリア・クリスティーナと4度目の結婚を行ったが、この時点でフェルナンドには子どもがおらず、弟カルロスが王位継承者となっていた。

当然ながらマリア・クリスティーナは我が子の即位を望んだが、彼女の気がかりはスペイン・ブルボン朝成立以来、王位継承法となっていたサリカ法により女性の王位継承は否定されていたことである。自分が娘しか生まなかったときにも王位の保障が得られるよう、彼女はフェルナンドに従来の王位継承法を改変するようそそのかした。結局この結婚では2人の娘しか生まれず、マリア・クリスティーナの配慮が実って長女イザベルが王位を継承することになる。しかし、恣意的な継承順序の変更に対し、教会や貴族を中心とした保守派がカルロスの即位を主張し、やがてこの対立が内戦(カルリスタ戦争)に発展する。

衰弱しきっていたフェルナンドは体調が良いときでも妻の支配を受けなければ執務は不可能であった。体調を崩す度に、カルリスタによる呪詛ではないかと恐怖したという。人生の最後の時期にあって下した決定が彼の意志によるものなのか、もはやはっきりしない。妻は夫の死の床では実質的な女王であり、自分の言いたいことを死に行く男に言わせ、自分の意志で死に行く男の手を動かすことができた。1833年9月29日、フェルナンド7世没。48歳であった。

「国王は王になり神と繋がるためには閣僚より賢くなければならない」とは、狂信的な王党派が頻繁に口にしたことであった。フェルナンド7世の時代以降、王権神授説を象徴するこの意見を顧みる者はいなくなった。

フェルナンド7世はこの波乱に満ちた1820年から1823年まで日記をつけることを欠かさなかった。後にカサ・バレンシア伯爵が出版することになる。
結婚と子女

フェルナンド7世は4回結婚した。

1802年、ナポリシチリア王フェルディナンド4世/3世(後の両シチリアフェルディナンド1世)の王女で従姉妹に当たるマリーア・アントニエッタ(1784?1806)と結婚した。子供は生まれなかった。

1816年、ポルトガルジョアン6世の王女で姪に当たる(フェルナンドの姉カルロッタ・ホアキナの娘)マリア・イサベル(1797?1818)と結婚した。2人の間に唯一生まれた娘は、4ヶ月で他界した。

1819年、ザクセン王子マクシミリアンの娘マリア・ホセーファ(1803?1829)と結婚した。子供は生まれなかった。

最後に1829年、自身の別の姪で、最初の妃の姪でもある、両シチリア王フランチェスコ1世(彼の姉が最初の妃マリーア・アントニエッタ)と王妃マリーア・イザベッラ(彼女もカルロス4世の娘でフェルナンドの妹)の王女マリア・クリスティーナ(1806?1878)と結婚した。マリーアは娘を2人生んだ。

イサベル2世(1830?1904)

ルイサ・フェルナンダ(1832?1897) - アントワーヌ・ドルレアン(モンパンシエ公爵、フランス王ルイ・フィリップの末子)と結婚。

『ブリタニカ百科事典』(1911年)の評価フェルナンド7世の行動を、それに彼より勇敢で良い人の人生が掛かっていた行動を、どうしても特筆せざるを得ない。一貫して無能だったとは確実に言える。只一人の王位継承者だった時期には、家庭の伝統故に政府から除け者にされていることに不満を言うことはできなかったかもしれない。しかし王位継承者として自分が受け継ぐことになっている王の権威の低下と母の愛人である王のお気に入りの権力を非難することは可能であった。民衆蜂起の指導者になっていたならば、民衆はついてきただろうし、良い口実ができたであろう。フェルナンドのやったことは、最初の妻ナポリのマリア・アントニエッタに唆されて意図のはっきりしない陰謀に加わったことである。1806年にマリアが死ぬと、腰巾着が画策する別の陰謀事件に引き込まれた。国事犯として送られたヴァランサイで低俗な生活に現を抜かし、自分の所為で言いようのない苦難を受けている民衆に起きたフランスの勝利を賞賛することに良心の呵責を感じなかった。
参考文献

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関連項目.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキメディア・コモンズには、フェルナンド7世 (スペイン王)に関連するカテゴリがあります。


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