フェルディナン・ド・ソシュール
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ソシュールは幼くもドイツ語英語ラテン語ギリシア語を習得した[7]。当時のスイスの高名な言語学者であったアドルフ・ピクテ(英語版)に知り合うと彼に傾倒し、自分の知っている言語間の相互関係を明らかにしようとした。そして14歳のときに、「ギリシア語、ラテン語、ドイツ語の単語を少数の語根に集約するための試論」[注釈 4]を書いた[8]

この論文で彼は、子音を唇音(P)、口蓋音・喉音(K)、歯音(T)、L、Rの5つにグループ分けし、そのうちの2つから特徴付けられる12個の語根を求めた。ソシュールはこの12個の語根には、基底的な意味がそれぞれ存在すると考え、これを証明しようとした[注釈 5][9]。この論文を送られたピクテは、ソシュールの思い込みをなだめながらも、サンスクリット語を勉強するなど今後の研究に向けた準備をするように、と助言している[10]。この論文には誤りが含まれていたが、印欧祖語の語根の構造[注釈 6]を把握し、ブルークマンに先立って鼻音ソナントを見抜いていたと言える[注釈 7][12]

ピクテに出した論文の失敗から、ソシュールは2年ほど言語学から離れる。1872年にコレージュ・ル・クルトルに入り、1873年からはギムナジウムに学んだ。1875年にはジュネーブ大学に入り、化学と物理学を勉強した[13]。理科系の学生であったが、モレルによる語学の授業をとるなど、次第に言語学への興味を増していった。1876年にパリ言語学会(フランス語版)に入会し10代にして論文を投稿しているが、この頃の論文にはソシュール独自の考えはみられない[14]。1876年に、ライプツィヒ大学に留学した。
留学

当時のライプツィヒにはゲオルク・クルツィウス青年文法学派カール・ブルークマンなど当時最先端の印欧語学研究者が多くいたが、ソシュールがライプツィヒを留学先に選んだ理由は、友人が多く両親が安心できるためであった[15]

そういった経緯であったため、ソシュールは初め専門知識をもっておらず、ライプツィヒ大学での勉学には準備不足であった[15]。だがすぐに必要な知識を修め、青年文法学派の説を吸収した。自身が数年前に見抜いていた鼻音ソナントをブルークマンが発表し名声を得ていることを知ると、落胆したものの自分の考えに自信をもった[16]。パリ言語学会への投稿もつづけ、「ラテン語のttからssへの変化は中間段階stを想定するか?」「印欧語の様々なaの区別に関する試論[注釈 8]の2つの論文を発表している。特に「試論」は、印欧祖語の*aを3つに区別して、印欧祖語のアプラウト研究に大きな影響を与えた[17]

1878年7月に、ソシュールはライプツィヒを離れベルリン大学に移った。ベルリンではウィリアム・ドワイト・ホイットニーと面会したが、ソシュールはホイットニーから生涯にわたる大きな影響を受けた[18]。ベルリン大学に在学中の1878年12月、論文「印欧語族における母音の原始的体系に関する覚え書き[注釈 9]が発表される。この論文では、1876年の「試論」を踏まえて、ソシュールは内的再建から印欧祖語の母音組織に関して、統一的な想定を提示した[19]。このとき*aの現れを説明するために彼が考えた「ソナント的な付加音」が後の喉音理論につながり、ヒッタイト語解読によって現実的なものとなった。発表当時の評価は高くなかったが、後の印欧祖語研究に大きな影響を与えた点で、印欧祖語の研究において最も重要な発見であったと言われる[20]


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