フェルディナント・ラッサール
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マルクスら他のライン地方の革命家と連携して革命の指導にあたったが、同革命は失敗に終わり、ラッサールも官憲に逮捕されて禁固6か月の刑に服した(→1848年革命をめぐって)。

1854年に離婚訴訟に勝利し、伯爵夫人が巨額の資金を得たことでラッサールの金回りも良くなった。ヘラクレイトスの研究に戻り、1857年にはベルリンに移住して『ヘラクレイトスの哲学』を出版。ベルリン哲学学会の寵児となり、学者としての名声を博した(→離婚訴訟勝訴と『ヘラクレイトスの哲学』で成功)。その後、金銭問題やイタリア統一戦争の評価を巡ってイギリス亡命中のマルクスとの亀裂が深まった。イタリア統一戦争を巡っては、マルクスは反ナポレオン3世の立場からオーストリア側に立っていたが、ラッサールは反オーストリアの立場からナポレオン3世・イタリア統一運動側に立っていた(→マルクスとの亀裂)。

1861年には『既得権の体系』を出版。同書の中で「法の歴史が文化的進歩を遂げていくと個人的所有権は徐々に制限され、多くの対象が私有財産の枠外に置かれる」という社会主義的法史観を説いた(→『既得権の体系』)。1861年4月にはマルクスのプロイセンへの一時帰国を斡旋し、マルクスをもてなしたが、マルクスのプロイセン市民権回復はならず、マルクスとの関係も好転しなかった(→マルクスの帰国騒動)。

1861年11月にイタリアを訪問してガリバルディと会見。彼の影響を受けて学問より直接的な政治運動が増えた。ローター・ブハー(ドイツ語版)らを同志に得、労働者に向けた演説を開始した。その中で社会政策の必要性を訴え、自由主義ブルジョワの自由放任主義を「夜警国家」と批判した。また「憲法問題とは法の問題ではなく、現実の権力関係の問題である」ことを説き、自由主義的憲法を制定しても国王が事実上の権力を握る限り、なし崩しにされるであろうことを自由主義ブルジョワに警告した。1862年にはそれらの演説をまとめた『労働者綱領』を出版したが、官憲に危険視されて逮捕され、罰金刑に処せられた(→政治運動への本格的参入)。

1862年7月にはロンドン万博訪問でロンドンを訪問し、マルクスの歓待を受けたが、ラッサールの浪費癖や自慢癖は生活苦だったマルクスには不快であり、二人の関係は余計に悪化した。最終的には借金問題で二人の交友関係は途絶えた(→ラッサールのロンドン訪問とマルクスとの交友断絶)。

1862年9月にビスマルクがプロイセン宰相となり、無予算統治を開始したことにより憲法闘争(ドイツ語版)が高まった。ラッサールは「封建主義勢力はもはや社会的な力ではブルジョワに勝てないので、似非立憲主義で延命を図ろうとしている」として、議会は自ら無期限休会を宣言して「似非立憲主義体制」を破壊すべきで、封建主義勢力がそれに根を上げた時にこそ本当の憲法を制定できると訴えたが、自由主義ブルジョワ政党ドイツ進歩党の立憲主義・議会主義(現在の憲法や議会が仮に「似非」だったとしても)は根強く、1863年1月にその提案は拒否された(→ビスマルクの登場と憲法闘争の勃発)。

これをきっかけに彼は進歩党を見限り、1863年3月1日に出版した『公開回答書(ドイツ語版)』の中で労働者階級は進歩党の指導から離れて、普通選挙を旗印にした独自の労働運動を起こすべきことを主張した。また社会政策の方針として労働者階級自らが企業家になるべきであるとして、労働者の自由な同盟と国家の援助による企業体「生産組合」の結成を訴えた。1863年5月にはこの方針を基にした全ドイツ労働者同盟を結成し、その指導者となった(→進歩党との決別と全ドイツ労働者同盟結成)。この頃から宰相ビスマルクと秘密裏に会談するようになり、進歩党を共通の敵とすることや「社会的王政」、「普通選挙の欽定」などを話し合った(→ビスマルクへの接近)。

1864年8月31日、恋愛問題に絡む決闘で命を落とした。その後ドイツ労働運動はラッサール派とマルクス系のアイゼナハ派に分裂したが、1875年に至って両派は統合されて社会主義労働者党(社会民主党の前身)となった(→ヘレーネ・フォン・デンニゲスとの恋愛騒動、→決闘死)。

ヘーゲルの影響を強く受けていたラッサールは、社会主義者ながら国家を重視した。君主制に対しても柔軟な姿勢をもっており、それがビスマルクとの連携を可能にした。権勢欲と虚栄心が強く、それが彼の独裁的な労働者運動指導につながったとしばしば指摘される。人間的魅力があり、大衆からの人気は高かった(→人物)。

フィヒテロードベルトゥス国家社会主義(Staatssozialismus)の系譜を継ぐ人物とされることが多いが、その位置づけに対して異論もある。1959年に国民政党への転換が宣言されるまでドイツ社民党(SPD)はマルクスを「理論上の父」、ラッサールを「運動上の父」としてきた。労働運動家としては高く評価されることが多い一方、理論家としての独創性のなさが批判されることがあるが、ラッサールの『事実的権力関係』の理論はゲオルグ・イェリネック、国家と労働を結びつける『労働階級の国家理念』はルドルフ・シュタムラーに影響を与えたという擁護もある。労働運動の方針についてもマルクスからは批判があったが、メーリングはラッサールの労働運動指導はマルクス主義に則ったものだったと擁護している(→評価)。

日本における社会主義黎明期の明治時代後期にはラッサールは日本社会主義者のスターだった。しかしロシア革命後にはマルクス=レーニン主義が社会主義の本流とされてラッサールは異端視されるようになり、社会主義者の間で語られることはほとんどなくなった。逆に反マルクス主義者の小泉信三河合栄治郎らから注目されるようになり、彼らと彼らの門下生を中心にラッサール研究が進められるようになった(→日本におけるラッサール)。
生涯
生い立ち

1825年4月11日プロイセン王国シュレージエン州(ドイツ語版)(シレジア)のブレスラウに裕福な改革派ユダヤ教徒の絹商人ハイマン・ラッサール(Heyman Lassal)の第2子として生まれる[14][15][16][17]。母はその妻ロザリエ(Rosalie)[18]

ブレスラウをはじめシュレージエン地方の都市にはユダヤ人が多く暮らしていた。同じプロイセン領でもライン地方のユダヤ人はかつてのフランス革命ナポレオン法典の影響で自由主義的な気風の中で生活していたが、シュレージエンではユダヤ人蔑視が強く、貧しいユダヤ人の多くはゲットーに押し込められていた。ラッサールはゲットー外の裕福なユダヤ人家庭の出身者だが、激しいユダヤ人差別を間近に見ながら育つことになった[19][20]。この点は同じユダヤ人であっても自由主義的なトリーアで育ち、ユダヤ人迫害をほとんど体験しなかったマルクスと決定的に違う点であった[21]

ラッサールは幼いころから優秀な神童として注目され、父親も「未来のユダヤ人解放者」として将来を嘱望していた[22]。ラッサールはユダヤ人の自覚を強く持って育つも、徐々にユダヤ人にうんざりさせられていった。1840年5月にオスマン帝国ダマスカスで大規模なユダヤ人迫害が起こった際には迫害者より立ち上がろうとしないユダヤ人に苛立った様子が日記から窺える[23][24][25][26]


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